【追憶】黒部光昭 第5話[天皇杯制覇]
2003年1月1日、天皇杯決勝(京都―鹿島)で決勝ゴールを決め、チームを優勝へと導いた黒部光昭を覚えているだろうか。
2015年に15年間の選手生活を引退し、彼は今、選手から立場を変えて、富山で第二のサッカー人生を歩んでいる。
カターレ富山強化部長として、選手のスカウトに携わる彼だからこそ、選手時代を振り返って見えてくることがある。
第5話[天皇杯制覇]
「J2で30点取って“間違いなくやれる”っていう自信がついたけど、J1に昇格して自分が“J1で点を取れるのか”っていう不安があった」
2002年、黒部は開幕からスタメンで出場。
3節に広島ビッグアーチでJ1初ゴールを挙げると、5節では東京ヴェルディ相手にハットトリック。7節でもゴールを決め、ワールドカップ中断期間までに5ゴールを挙げた。
2002年5月31日~6月30日、日韓ワールドカップ開催。
京都からは朴智星が韓国代表として出場し、ポルトガル戦でゴールを挙げるなど活躍。
韓国は決勝トーナメントに進出し、イタリア、スペインに勝利して、アジア勢初のベスト4入りを果たした。
7月、ワールドカップで自信をつけた朴智星が京都に帰ってきた。
「チソンがワールドカップから帰ってきて、どのポジションをしたいんだ?みたいな話になった。
チソンが『ワールドカップでやってたポジションでプレーしたい』って言って、
じゃあ、ちょっとそれやってみようってなって、やってみたらはまった(笑)。
そこから3トップ(黒部光昭・松井大輔・朴智星)になった」
朴智星のポジション変更で黒部も能力を発揮しやすくなった。
2ndステージになると、黒部への相手マークは厳しくなったが、
黒部はJ1リーグ27試合に出場し、二桁得点(13得点)をマークした。
リーグ終了後、京都は天皇杯で勝ち進んでいく(J1シードにより3回戦より出場)。
3回戦、横浜FCと対戦し、黒部が3点、松井が1点取り4-0で勝利(@西京極)。
4回戦、アビスパ福岡と対戦し、田原豊のVゴールで勝利(@鴨池陸上競技場)。
クリスマスに行われた準々決勝は、名古屋グランパスエイトと対戦し、松井が得点し1-0で勝利(豊田スタジアム)。
準決勝は年末も押し迫った12月28日、サンフレッチェ広島と対戦し、松井の2ゴールで、2-1で勝利(@埼玉スタジアム2002)。
そして、2003年1月1日、ついに決勝の舞台まできた。
「京都が勝てると思っていた人は少なかっただろうし、どこまでやれるんやろうって、みんな思ってたと思う」
対戦相手は鹿島アントラーズ。舞台は国立霞ヶ丘陸上競技場。
この一戦に50,526人の観衆が集まった。
「鹿島は経験もあるし、なかなか勝つのは簡単ではないと思ってたけど、京都がこんなとこまでいけるチャンスはなかなかないと思うし、せっかくここまで来たんだったら優勝したいってみんな思ってた」
先制は鹿島。前半15分、エウレルにゴールを許す。
0-1で折り返した後半5分、朴智星がゴールし、1―1の同点に。
「チソンが点を取ったこともあってスタジアムの雰囲気が変わった。取られた1点を取り戻してくれたっていうのは大きかった」
そして、後半35分、京都が鹿島から逆転の1点を奪う。
決めたのは、ゴールを取ることにこだわってきた黒部。
残り時間は10分。
2-1でリードしたあとのことを黒部はこう振り返った、
「まだみんな若くて、がむしゃらにやってただけやったと思う。
流れをみながらやれるというメンバーではないから、天皇杯決勝で、2-1で勝ってるところで、残り5分になっても、アディショナルタイムになっても普通に戦ってた。
長谷川健太さんがテレビの解説で、京都の選手は時間を稼いだらいいのにって言ってたけど、本当にその通りやと思うよ。
だけど、そういう若いチームじゃなかったら、あっさりどこかで負けてただろうと思う」
あの時みんな若かった。だからこそ優勝できたのだと。
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