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事務職契約社員がアジア人女性初のメキシコ最上位指導者「PROライセンス」 を取得するまで 大野真歩さんが見つけた女子サッカー界のチャンス

WEリーグで監督を務めるためには、日本サッカー協会のS級コーチまたは、それに準ずるAssociateーPro(AーPro)ライセンスの取得が義務付けられています。S級コーチは「プロレベルの指導が質高くできる」のライセンス。養成講習会には参加資格があり取得できる人数は限られています。

本田美登里さん(ウズベキスタン女子代表監督)が2007年に取得するまで、S級コーチライセンスを取得した女性指導者は誰一人としていませんでした。S級コーチライセンスは、長きにわたり狭き門となっていました。

2023年度は5人の女性がS級コーチライセンスを取得しました。INAC神戸レオネッサでコーチを務める小倉咲子さん、三菱重工浦和レッズレディースでコーチを務める田代久美子さん、ノジマステラ神奈川相模原アヴェニーレで監督を務める藤巻藍子さん、ジェフユナイテッド千葉レディースで監督を務める三上尚子さん、大宮アルディージャVENTUSで監督を務める柳井里奈さんです。

メキシコサッカー連盟の指導者「PROライセンス」を取得した女性を訪ねる

各国には独自の指導者ライセンス制度があります。サッカー界でもほとんど知られていませんが、アジア人女性で初めてメキシコサッカー連盟の指導者「PROライセンス」(日本サッカー協会のS級コーチと同じようにメキシコサッカー連盟の最上位ライセンス)を取得した女性が日本にいます。大野真歩さんです。

大野さんが通った語学学校があるUNAM(メキシコ国立自治大学)のモニュメント。後ろに見えるのは図書館でユネスコ世界遺産に登録されている。 提供:大野真歩さん

選手としての経験がほとんどない大野さんが、ライセンスを取得した経緯と、そのライセンスを活かして何をしようとしているのかをお聞きしました。そこには波乱万丈の物語がありました。

大野真歩さん

そもそも、なぜ、日本ではなくメキシコで指導者ライセンスを取得しようと考えたのでしょうか。「話は長くなりますが……私はサッカーで救われました」と大野さんは話しはじめます。

メキシコの青い空

「サッカー部に入るか勉強するか、どちらかを選べ」担任の先生に決断を迫られる

中学生時代の大野さんは活発に活動し生徒会長を務めました。全国的に著名な吹奏楽部での活動に情熱を傾け、区の代表としてオーストラリアに派遣されたこともあります。ただ、残念ながら先輩と衝突し、途中で退部してしまいました。その反動もあって大きな決意と共に受験勉強に邁進。志望する高校に入学することができましたが、今度は「燃え尽き症候群」のような状態に陥ってしまいました。そんなある日、男子のサッカー部の顧問の先生から「サッカー部に入れ」と言われます。突然の声がけでした。実は、体育の授業でソフトボールをするとき、大野さんが体育倉庫からボールを取り出し、一人でリフティングをしているのを、その先生は見ていたのです。大野さんは、リフティングのことを記憶していなかったそうです。小学生のとき、地域の少年団で短期間ながらサッカーを楽しんでいたので、自然にボールを蹴っていたのです。

先生の勧誘は一ヶ月くらい続きました。遅刻が増え成績が低下していった高校2年の秋、今度は担任の先生から「サッカー部に入るか勉強するか、どちらかを選べ」と言われました。「どちらも嫌だ」と思った大野さんですが、今の環境を変えるには、何かをしなければならないと思い男子のサッカー部に入部する決断をします。女子サッカー部はありませんでした。周囲からは、男子の中に女子が加わることに反対の声もありました。自分の心の中にも抵抗感がありました。でも、先生や仲間たちに支えられサッカーを続け、高校に通い続けることができました。そして、将来はサッカーを通じて社会に貢献する仕事に就きたいと思うようになりました。

大野真歩さん

日本では事務職として働く

大学に進学し体育指導について学びながら、東京都女子サッカーリーグ1部で活動する SOCIOS FCでプレーを始めます。SOCIOS FCは渋谷区恵比寿で活動するチームで、その設立は1976年。日本初の女子サッカー・クラブチームであるF.C.ジンナンの設立からわずか4年後に活動を始めた歴史あるチームです。

大学を卒業すると独立行政法人 日本スポーツ振興センターに就職し会計課で働きます。どのような仕事だったのかを聞けば「普通の事務職でした」と大野さんは笑います。もっとスポーツの現場に近い仕事をしたかった……それでも、待望の、スポーツに関わる仕事です。

そして、2015年に一般社団法人日本トップリーグ連携機構に転職します。各種ボールゲームの日本の最高峰リーグが集まり、競技力の向上と運営の活性化を目指した活動を行っている団体です。東京2020大会の準備に向け活発に行っていた、各競技団体へのヒヤリングプロジェクトの業務を大野さんは担当します。

プロジェクトが落ち着くと、そのときの経験を活かし日本サッカー協会に転職。契約社員として働くことになりました。あるとき大野さんは「日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画」という一年間の留学制度を知ります。「日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画」は、毎年、30人程度(近年は50名)の留学生をメキシコに送り込んでいました。その中には日本サッカー協会が指導者や審判等の候補者を募集し、外務省に推薦した人材も含まれていました。

留学制度を利用してメキシコへ

「ちょっとおかしいと思われるかもしれませんが、私はメキシコについてほとんど知りませんでした。国のイメージすらなく、テキーラ、タコス、ソンブレロをかぶったおじさんくらいしか思い浮かべることができませんでした。当時のメキシコでは凶悪犯罪が発生し、危険なイメージがあったはずなのですが、それも知らず、先入観を持っていなかったのが良かったのかもしれません。」

もちろん、大野さんは、かつて、なでしこジャパン(日本女子代表)がメキシコ女子代表とFIFA女子ワールドカップ中国2007の出場を賭け大陸間プレーオフで過酷なアウェイ・ゲームを戦ったことも知りません。何も恐れるものがありませんでした。

「これだ!と思いました。『私をメキシコに行かせてほしい!』と申し出ました。」

ただ、大野さんは事務職で契約社員。上司にとっては寝耳に水の申し出です。当初は良い反応を得られません。しかし「前例のないトライ」をするのが日本サッカー協会。1年間の休職扱いでメキシコに渡ることになりました。滞在するのは首都のメキシコシティ。午前中にスペイン語を学びながら、午後はサッカーとの接点を創りました。現地のチームに所属しプレーもしました。

クルーザーに愛される街ラパスで見つけた巨大なサボテン 提供:大野真歩さん

2019年、メキシコでの一年間の留学生活はあっという間に終わりました。そして、何も達成していない自分に気がつきました。

「このままでは帰れないと思いました。せっかくメキシコに来たのだからメキシコでチャレンジしようと思いました。確かに、たくさんの経験はしました。でも、ここで帰国しても、自分が日本のサッカー界に貢献できることは限られているのではないかと思いました。」

メキシコで指導者ライセンス取得を決意する

大野さんは「メキシコで指導者になろう」と決意しました。メキシコサッカー連盟の指導者養成学校は選手経験がなくても入学でき、2021年当時は最短二年間で日本のS級に相当する最上位の指導者「PROライセンス」を取得することができたのです。 そして、足りなかった現場経験も積むことにしました。大野さんは日本サッカー協会を退職します。日本サッカー協会の皆さんは送り出してくれました。

「『頑張ってね』と応援してくれる声が多かったです。」

ただ、ここからは一人。日本サッカー協会の職員という肩書きもなくなります。留学期間も終え、何の後ろ盾もなく無謀なチャレンジが始まりました。

クラブ・アメリカのホームスタジアムは8万7千人収容のアステカスタジアム 提供:大野真歩さん

あの名門のクラブ・アメリカに押しかけ帯同

大野さんは、自分の生活するメキシコシティをホームタウンとするクラブ・アメリカへの帯同を試みます。

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