森マガ

こいつら本当に戦いに行くんだ…植田直通が海外で感じた日本との熱量の差【サッカー、ときどきごはん】

昔は本当に喋らない選手だった
今も決して饒舌に話すタイプではない
ひたすら目標に集中して
背中で語る典型的なプレーヤーだ

自ら厳しい環境に飛び込む
当然苦しい状況に陥るが
何をすればいいかは分かっている
そんな植田直通に半生とオススメの店を聞いた

 

■鹿島は先輩が優しく声をかけてくれるクラブじゃない

これまでの人生を振り返って、自分として一番しんどかったときーーそれはもういっぱいありますね。鹿島に加入してからもそうだったし、試合に出られない時期もあったし。試合に出始めたけど、そこからまた出られなくなった時期もあったし。

2013年に大津高校から鹿島へ加入するときは、いくつか他のクラブからも誘われていました。でも、自分の中では「このチームがセンターバックとして出ることが一番難しいだろう」と思って選んだんです。鹿島に入ってみて、やっぱり最初はなかなか出られなかったけど、自分がそういう環境に身を置くことができたのは正解だったと思います。

鹿島に入ったとき、センターバックには岩政大樹さん、青木剛さん、それから中田浩二さんもいたし、山村和也さんも、昌子源くんもいて。僕はもう何番手なんだっていうところからでした。

その当時は練習の紅白戦に出るのも難しかったですね。紅白戦の間はピッチの外で若手だけ違うトレーニングをやってたりして。昔はクラブハウスのロッカールームも試合に出るグループとそうでないグループで別でしたからね。試合に出るのは難しいだろうと思って鹿島に来たけど、想像以上でした。

自分の中で「やれる」という気持ちはあったんだけど、でも全然試合には絡めない。ヤマザキナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)には出てましたけど、やっぱりリーグ戦に絡むことはなかったし、試合の遠征には行っても試合に出ないという状況も続いてたんで、そのころは苦しかった時期でした。

鹿島はそんなとき、監督とか先輩とかが優しく声をかけてくれるようなクラブではない。今もそうですし、僕もそういう感じではないんで。一人ひとりに声をかけるより、先輩がプレーで示し、後輩はそれを盗んで成長するものではないかと。僕もそう学んできましたし、今いる後輩たちもそういう姿勢で学んでほしいと思います。

僕はどの苦しい時期も一緒なんですけど、「まずは出てる選手よりも練習しなくちゃいけない」という気持ちになってました。だからこそ、1年目から自分に足りないと思うことをとにかく必死にやってました。目の前の練習から、そのとき自分にできることを全力でやることを意識してやってたと思います。

それでも結構壁は高くて、リーグ戦に出るようになったのも2年目からです。2年目になって、少しずつチャンスをもらって出るようになってきたんですけど、すぐレギュラーに定着できたわけじゃなかったし、ずっとポジション争いを続けてたんで、それからもやっぱり出られない時期もあったし。

でもそういったときこそ、「初心に帰る」じゃないですけど、人よりも練習して、今までやってきたことと、自分に足りないものを練習で身につけるということを、どんな時もやってたと思います。

そのころは確かに苦しい時期ではあったんですけど、僕の人生の中でその苦しい時間があるからこそ少しずつ成長できたと思うんで、僕はそういうのもすごくよかった、いい経験だと思っていて。あの経験があるからこそ、という思いが今もあります。だからここが一番きつかった、というのはないかもしれないですけど、やっぱり節目は全部きつかったと思います。

あるときから試合でよく使ってもらえるようになりました。ロングフィードは自分の強みにしていきたいと思い、プロになってからもずっと取り組んで、自信になってくるものもあったし、まだまだだと思う部分もある中で、少しずついいプレーが出せるようになってきたという時期だったと思います。

けれど、全然喜びはなかったです。僕は常にポジション争いをしてきた身だし、自分が悪いプレーをすれば、すぐ違う選手が出てくるだろうという思いがずっとあったんで。いつも「自分の力を示さなきゃいけない」と練習でも試合でも思っていました。

そうしたら2014年末に内田篤人さんが辞退した代わりとして2015年1月の日本代表のオーストラリア・アジアカップメンバーに入ったんです。でも、代表に入っても全然ですよ。入っただけで何にもしてないし、結果を残してないんで。

この世界は結果が全てだし、選ばれただけの選手なんていうのはいくらでもいるんですよ。その中で結果を残せる選手は一握りですし、その中に僕は入れなかった。だけど「自分はまだまだ」という思いがあるからこそ、自分にはやるべきことがあると今は思っています。

その後も日本代表で出られない時期があったんですが、別にキツいとも思わなかったです。選ばれたことに対してはうれしかったし、日本代表はみんなが目指してる場所でもあるし、そこに入るにはかなり頑張らなきゃいけないと元々思ってたので。

だから試合に出ることができなくても、日本代表のメンバーの一員になることは、その空気感に触れることだったり、常日頃から高いレベルで練習や試合をできるということがよかったですし、行ったからこそ成長できた部分もあるんで。

試合に出ていないから悔しさはありますけど、そういった経験は僕の中でもかなり貴重なものになってます。僕は代表に行けばそこが自分のチームだと思ってたし、だから勝利のために自分は何ができるのかということを思いながら、ずっとやってました。

2017年12月12日に中国戦で代表デビューしたときもサイドバックだったし、よく右サイドバックで使われたりしたので、「センターバックで使ってみてよ」という思いはずっとありました。でも試合に出たいと飢えに飢えてたんで、僕はどのポジションでも出るつもりでした。サイドバックで出ろと言われたときも、「自分ならやれる」という自信を持って行きましたし。だから別にどこであろうと、気にはしてなかったです。

 

(C)日本蹴球合同会社

 

■海外にひとりで行って、いろんなものを感じたかった

2018年7月、ベルギーに移籍しました。今、日本ではセルクル・ブルッヘといいますけど、僕の中ではブルージュですよ。ブルッヘはオランダ語読みだから。

僕はあんまり日本人が近くにいるようなクラブではなくて、自分ひとりで行ってみて、いろんなものを感じたかったし、自分ひとりでやってみたいという思いもあったんでブルージュに行ったんです。そういったものを含めて海外挑戦だと思ってたし、そのおかげでいろいろいい経験ができたと思ってます。

他のチームだと日本人選手がいて日本語で話ができたと思うんです。けれど、そうじゃない場を選んで自分は行ったんで、通訳もつけたくなかったし、そういう環境に行かないと分からないこともたくさんあったし。最初は環境に適応する難しさがありましたけど、世界中でサッカーのルールは一緒だし、サッカーをするうえでは、別にそこまで難しいことはなかったと思います。

海外行ってからも、次第に試合に出始めてポジションを掴んだんですけど、鹿島と同じように出られない時期もありました。そういった時期は鹿島で得た経験を生かしながら、「自分が何ができるのか」と考えてました。苦しいとき、自分の中で「こうやっていけば大丈夫だ」というものがずっとあるんで、それを信じながらやってたっていう感じでしたね。

人がやっていないときに練習するのは当たり前だし、チーム練習の中でどれだけ違いを出せるかは大切なことです。海外だと、試合に出てる選手よりもなおさら「自分は何ができるのか」ということが大事になってくるので、それを練習で示さなきゃいけないんで。

 

(残り 3103文字/全文: 6349文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

日本サッカーの全てがここに。【新登場】タグマ!サッカーパック

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ