森マガ

本当のことを伝えたいから辛口になる…清水秀彦の指導者人生と解説論【サッカー、ときどきごはん】

 

報道陣と様々な駆け引きをする監督がいる一方
オープンマインドで接してくれる監督もいる
いつも朗らかでいろんな質問に答え
ユーモアたっぷりに人を笑わせる

ところがそんな明るい人物が
テレビの解説では辛口として知られる
そんな不思議な一面を持つ清水秀彦に
自身の半生とオススメのレストランを聞いた

 

■引退後は社業に専念するつもりがプロ監督に

僕が日産自動車に入ったのは1977年で、チームはまだ日本サッカーリーグ(JSL)の2部にいたんですよ。神奈川県リーグからやっと上がったばかりでしたね。そんなに強いって感じじゃなかったと思います。

本当は大学を卒業するとき別の会社に決まりかけてたんです。ただ、その会社は非常に堅くて真面目な感じがしてちょっと自分に合わないんじゃないかと心配してたんですよ。そうしたら高校の先輩で、後々日本女子代表監督にもなった鈴木保さんに日産自動車に誘われたんです。

横浜で遊んでたら駅で鈴木さんにバッタリ会って、挨拶したときに「まだ決まってないんだったらウチに来いよ」と言ってもらったんですよ。でもそのとき鈴木さんがどこに勤めてるのか知らなくて(笑)。

日産だって教えてもらって、横浜だから実家から近かったし、よく聞いたら高校の先輩が他にも2人いるんで入社したんです。日産がどのリーグで戦ってるかも知りませんでしたね。

入って2年目か3年目から9番をつけてました。早野宏史とかが僕の1年あとに入ってきて、入れ替え戦ですごいシュート決めたりしてましたよ。

1983年に柱谷幸一、水沼貴史、田中真二、越田剛史、杉山誠、境田雅章と6人が入社してきて、その前に金田喜稔や木村和司も入ってきてね、5、6人は代表クラスの選手を揃えたんですよ。それでいきなりその年の天皇杯に優勝しちゃったんだよね。

僕は1972年に運よく高校サッカー選手権で優勝してたし、法政大学時代にも優勝したこともあったんですけど、まさか社会人でもそんな上でやるとは思ってなかったですけどね。夢みたいな話ですよ。

それからもどんどん戦力が入ってきて、競争が毎年厳しくなるんです。最初センターフォワードやってたけど中盤になって、最後はサイドバックもリベロもやりましたね。監督が加茂周さんで、自分で言うのもおこがましいけど、少し信頼してもらってたかもしれないですね。だからポジションを変えながらでも使ってくれたんじゃないかなって。

新しいポジションをやって楽しいという気持ちもありましたからね。それにいろんなポジションをやって「サッカーはこういうスポーツなのか」と分かったこともありましたし。

センターフォワードのときは「ボールよこせ」だけ言ってたもん(笑)。自分勝手というか、守備なんか考えてもいないし。でもたとえば25歳を過ぎてボランチをやったときは、初めて「サッカーってこうなってるんだ」って分かったというか。

中盤の構成だとか、さばき方だとか、一見遊んでいるようなパスが最後は生きるとか、「そうなんだ」と思いましたよ。前が木村、金田、柱谷、水沼とかみんなうまいでしょ。だから厳しかったり難しかったりするボールを出してもパスになるし。

1985年9月6日にJSLの開幕戦が三ツ沢公園球技場であったんです。相手は住友金属で先に2点取られてね。そこから逆転して勝つんですけど、決勝点はボランチだった僕でしたね。あのときは加茂監督「上がれ」って言われて、センターフォワードだったから点を取るところも何となく分かるわけですよ。それでゴールしたら、今度は監督から「下がれ!」って言われて慌てて下がってました。

キャプテンだったのは、やる人がいなかったから(笑)。やっぱりみんな代表選手だし個性的でしょう。一国一城の主というかワガママなんです。言うこと聞かない。その中では僕がちょっと歳が上で「清水さんが言うんだったらしょうがないな」ってとこあったからでしょうね。それでも木村や金田は指示を聞いてないフリするから、ずっと試合中は怒鳴りまくってたからね。「帰れ!」とかさ。まぁ、みんな許してくれてましたよ。

1991年からは監督になったんですけど、正直指導者になるなんて思ってませんでしたからね。サラリーマンだったんで、いい年齢になったらサッカー部辞めて会社に帰らなきゃいけなかったから。職場に行ったら「いつサッカー部辞めるんだ」みたいな話もされてたし。

仕事は経理だったんですよ。運動部の人は、大体、人事課、厚生課、総務課とか休んでも他の人でカバーしやすいところに配属されてたんです。僕も希望は人事課って出したんですけど、会社に入るとき言われたんです。「お前はチャラチャラしてるからちょっと苦労してくれ」って。

これが大変な職場でね。メーカーにとって大切な原価計算とかずっとやるわけですよ。そういう重要な仕事だったから、いずれサッカー部を辞めて職場に戻らなきゃいけないとも思ってたんですよね。

ところが1985年12月、一度総監督に退いていた加茂さんが監督に復帰したときコーチがいないという状況になったんです。そうしたら多分僕が最年長で、キャプテンだったというのもあって選手兼任でコーチになったんですよ。1988年に現役を辞めたんですけど、その前2年間ぐらいはコーチを兼任してました。

僕はコーチの資格は取ってましたけど、指導者になる準備はしてなかったんですよね。だから短期で何度も留学させてくれたんです。当時JSLは前期と後期の間がしばらく空いてたから、その期間に加茂監督が知ってる高校に行かせてもらって、知らない土地の知らない選手たちを1週間とか10日教えて、それが終わったら次の高校に行ってって。

海外もブラジルやアルゼンチンに何カ月間も留学させてもらったんです。イギリスにも行ったし、1990年イタリアワールドカップのときは2カ月ぐらい行かせてもらったし。そのころから指導者って面白いと思いはじめたんです。それまでは選手として「オレが、オレが」だったけど。勉強のためにいろいろ行かせてもらったのは本当によかったですね。

それで日産に戻って指導してたんですけど、でもほら、僕が木村とか教えられないから(笑)、若手を教えてました。海外でやって来たことを持って帰って教えて、そうすると選手がうまくなってきて「面白い」と思い始めたんです。教えた甲斐があるというか。

そうこうやっているときに、Jリーグが始まっちゃうという流れになっちゃったんです。「もうあと2、3年コーチをやったら職場に戻ろう」と思ってたときに。あれよ、あれよという間にプロリーグに向かって走り出して、それに乗っかっちゃったんです。

元々、日産では加茂監督がプロだったし、木村とか水沼とかああいう一流どころはみんなプロ契約になってたし、チームもプロに向かって動いてたんですよ。もちろん社員の選手もたくさんいたんですけど。

僕はいい歳だったし、「今さらプロになっても」と思ってたんです。そうしたら1989年に加茂監督が辞めちゃって、元ブラジル代表選手のオスカーが監督になったんですけど、2年で辞めちゃった。そうしたら僕しかいないじゃん、ということになっちゃって。

それでプロとして監督になることにしたんです。上司からは「バカじゃないの?」と言われましたね。「監督ってどんなものか分からないなぁ」と思いながら就任ですよ。それで戦ったJSLの最後の1991-1992シーズンは2位でした。読売クラブが1位でね。でも天皇杯は獲ったんです。読売クラブとの決勝戦に勝って。

ラッキーでしたよね。初監督で勝てたから。当時37歳で、周りの監督さんたちは1968年メキシコオリンピックの選手の人たちでしたからね。憧れていた人たちの中でタイトルを獲ることができましたから。

 

■森保一はベガルタに無理矢理入れた

その最初に勝てたのがそのあとに続きましたね。僕が就任する前年もJSLカップを制したチャンピオンチームでしたし、就任してからは天皇杯を獲ったことで僕の名前を知ってもらえましたし、運がよかったと思います。

それから日産自動車は横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に生まれ変わって、1992年のヤマザキナビスコカップからJリーグとしての試合が始まりました。

僕は1994年にマリノスの監督を辞めて、それから1996年にアビスパ福岡、1998年から2年間は京都パープルサンガ、そのあとに2003年までベガルタ仙台の監督を務めたんですけど、どれもいろんな思い出がありますね。

そもそもマリノスを辞めるときも、「辞める」っていうイメージがなかったんです。気持ちがアマチュアでしたね。プロっていうのは成績が出ないとクビになって、それで終わりですよ。

それまで20年ぐらい毎日グラウンドに通うのが当たり前だったけど、もうそういう場所がないんです。ショックでしたね。20年間ずっと積み上げてきたものが、ある日突然なくなってしまう。

それから1年間は「今後どうしようか」と考えてたんです。そのとき思ったのは、マリノスは強かったし環境も整ってたから、今度はその途中にあるチームをやってみようって。アビスパはJFLから上がったばっかりだったし、しかも九州で初めてのJリーグのチームだったんで、そこが魅力だと思ったんです。

でも思ったより厳しかったですね。優先的に使える練習場がないんですよ。公園が練習場だったということもあって、犬の糞が転がっていたりとかね。クラブハウスがないから車の中で着替えて、練習が終わったらマネージャーからお金をもらってコインシャワー浴びるんです。下部組織が練習するところは照明がなくて暗いから、車のライトを当てて練習してたんですよ。

いままで当たり前だと思っていたものが浸透してないことにもショックを受けましたね。特に下部組織がしっかりしてなくて。外国籍選手にお金をかけすぎて下部組織にまで予算が回っていなかった感じでした。でも地方クラブは自前の選手をきちんと育てないと先が無いですからね。

今思えば偉そうだったのかもしれないけど、「これじゃ選手はうまくならないよ」とかクラブの上の人たちにバンバン言っちゃってね。でもまだ分かってくれる人がいなかったですね。その年までは降格がなかったから若手をどんどん使って育てようと思ってたんだけど、それも強引すぎたかな。

ただ、山下芳輝、上野優作、石丸清隆らの加入一年目で使ってあげられたのはよかったですね。山下は日本代表に選ばれるようになったし、上野は日本代表のコーチだし、石丸は愛媛FCで監督をやってますからね。

今、いろんなチームが練習環境をちゃんと整えたり、下部組織の強いクラブはトップチームも成績がよかったりしてますから、僕が言ってたことはあながち間違いじゃなかったと思いますね。

1996年の1年でアビスパを辞めて、1年経った1998年に京都パープルサンガに呼ばれたんですけど、本当を言うと最初はためらったんです。福岡と同じようなシチュエーションに思えたから。

でも、ハンス・オフトが監督だったでしょう?実はオフト監督にはそれまでに何度も呼ばれてたんです。最初は現役時代、オフト監督がマツダを指揮してて、そのときトレードで引っ張ろうとしてくれたんですよ。同じ自動車メーカーだというのも引っかかって止めたんですね。

次はマリノスの監督をやってるとき、オフトが日本代表の監督に就任してコーチとして呼んでくれたんです。ただ自分のクラブがあるし、会社は当然ダメだと言うし。オフト監督はジュビロ磐田の監督に就任したときも声をかけてくれたんだけど、それもお断りしてました。

それでも4回目の声をかけてきてくれてね。自分としては「コーチだし、監督になるんじゃないからいいか」という気持ちで引き受けたんですよ。オフト監督はちゃんとしてる人だと思ってたし。堅苦しいけどさ。

それにサッカーに関して教わりたいと思ってたんです。それまで一番サッカーを教えてくれたのは加茂監督で、15年ぐらい下でやったんですけど、それ以外の監督の下にいたのは短かったから。それに加茂監督も「見て覚えろ」というタイプだったし。

だからオフト監督が何を考えるのか、外国人の監督はどんなことを言ってチームを作るのかとか興味があって行ったんです。

そうしたらオフト監督は3カ月ぐらいでいなくなっちゃったんです(笑)。あるとき、試合後の記者会見が終わったあとにやってきて「グッドラック」って言って辞めちゃった。ホント、びっくりこいちゃいましたよ。

オフト監督で覚えてるのは、1軍、2軍って分けて2軍は練習を見ないことでしたね。僕が気を遣って2軍のほうに行ってコミュニケーションを取ろうとすると止められてましたし。「プロは這い上がるしかない」ということを言いたかったんでしょうね。

クラブハウスに監督室、コーチ室があるんですけど、監督がコーチと話をするときは、僕しか監督室に呼ばないんですよ。内容を秘密にして他のコーチに教えないんです。オフト監督は「それが当たり前」と言うんですよ。

「オランダだったらユースを2人のコーチが別の角度で見て、2人で選手の評価を下す。だけどその内容が漏れると問題だから2人だけで話すようにする」ということでした。

なるほどと思う部分もありましたけど、そのときの日本人には厳しすぎましたね。やる気をなくしてしまう選手も出てきましたし、僕も監督室からコーチ室に戻ってくると、何となく気まずい雰囲気になりましたし。

だからなかなかチームにならなかったですね。そうしたらオフト監督はヤマザキナビスコカップの試合後の記者会見で「辞めます」って宣言しちゃって、選手にクールダウンさせてる僕のところにやって来て「グッドラック」ですよ。

その割り切りはすごいと思いましたけどね。「ズルズルやってもダメだ」と思ったんでしょう。そうしたら他のコーチにも選手にも何も言わないで、スパッと自分でケジメをつけちゃうんですよね。

僕も「自分はオフト監督に呼ばれてきたから」と一緒に辞めようとしたんです。だけど、もう次のリーグ戦がすぐ来るわけですよ。そうしたら選手が何人かやって来て「監督になってくれ」と言うんです。それでまた考えちゃって。降格しそうになってるところで選手を捨てていっちゃうみたいで嫌でね。

それで引き受けたんです。そのあと勝って残留できたんですよ。そう言えばあのころのチームには森保一もいました。でもその年、GMだった松本育夫さんが契約満了になったのが痛かったですね。翌年の1999年はまたいろんな考え方が混じっちゃって難しくなった。

今となってはあれもいい経験ですよ。練習場が整っていたり財政状況がよくても、それだけじゃチームは強くならないって学びました。やっぱりちゃんと積み上げなくちゃいけない。

京都を契約解除になったら、宮城出身の大学時代の同級生から電話がかかってきたんですよ。「電話番号をベガルタ仙台に教えていい?」と言うから、「いいよ」って答えてたら、本当に電話がかかってきたんです。

せっかく連絡をもらったからって一度見に行ったんだけど、練習風景を見て最初は「こりゃ難しいな」と断ろうと思いましたね。前半戦は10チーム中10位だというのも聞いて。でもいろいろ話を聞いていくうちに、なんか情が湧いちゃってね。

 

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