WE Love 女子サッカーマガジン

日本サッカー殿堂入り 大仁邦彌さん 女子サッカーどん底から「なでしこジャパン誕生」そして世界一へ その功績と次世代への宿題 

名誉総裁 高円宮妃久子殿下ご臨席の下、第19回日本サッカー殿堂 掲額式典が行われました。日本サッカーのために心血を注いでくださった皆さんの作った歴史を振り返り、功績をたたえ、その先で迎える明るい未来を誓いました。 

日本サッカー協会 会長の田嶋幸三さんは、当日の早朝(日本時間)にヴォルフスブルクのフォルクスワーゲン・アレーナで日本代表がドイツ代表と対戦したため、ドイツからリモートでの参加。そのため、会場では副会長の岡田武史さんが「いつもピンチヒッター(笑)」と和ませて挨拶しました。というのも、今回の掲額表彰をされた大仁邦彌さんは岡田さんとは「腐れ縁(岡田さん談)」。日本代表がFIFAワールドカップ フランス1998への初出場を目指すアジア予選の最中に、当時は日本サッカー協会強化委員長(現技術委員長)だった大仁さんが、会長の長沼健さんと副会長の川淵三郎さんに加茂周監督の解任を進言。アシスタントコーチだった岡田さんが、急遽、「ピンチヒッター」として監督に抜擢された過去があるからです。 

日本の女子サッカー躍進の足跡を大仁さんの歩みから振り返る

大仁さんは、日本の女子サッカーの発展を強く後押ししてきた方です。この日、なでしこジャパン(日本女子代表)も一緒に掲額表彰されたのは、深いご縁といえます。今回のWE Love 女子サッカーマガジンでは「女子サッカーどん底から『なでしこジャパン誕生』そして世界一へ」をテーマに2000年から2011年までを振り返ります。 

日本サッカー殿堂の掲額者は高円宮憲仁親王および90人と3チームになりました。現在、日本サッカーミュージアムは休館しているため、今回、新たに掲額された4人および1チームはJFAハウスのロビーで掲額されています。 

JFAハウスのロビー

第19回日本サッカー殿堂 掲額者 

大澤英雄さん 

学校法人国士舘 理事長。国士舘大学サッカー部創部時から選手としてプレー。卒業後は、同部のコーチ、監督などを務め60年以上の長きにわたる指導を行う。全日本少年サッカー大会(現、JFA全日本U-12サッカー選手権大会)の創設に尽力。JFAの4種担当理事、特任理事として少人数制(8人制)サッカー導入への道筋をつけた。日本サッカー指導者協会の初代理事長。  

大仁邦彌さん 

JFA常務理事、女子委員長、株式会社日本フットボールヴィレッジ代表取締役副社長、日本フットサル連盟会長等を歴任。2012年に日本サッカー協会会長に就任し、女子サッカーの充実、東日本大震災復興支援、JFAの組織改革、高円宮記念JFA夢フィールドの建設等をけん引した。  

セルジオ越後さん 

1972年に来日した日本サッカーリーグ初の元プロ選手。1978年より「さわやかサッカー教室」の認定指導員として全国各地を回り、25年間で1千回以上実施し、未来のJリーガー、日本代表を数多く育てた。辛口のコメンテーターとしても知られている。 

高橋陽一さん 

世界中で大ヒットしたサッカー漫画「キャプテン翼」の作者。子どもたちの心をつかみ、多くの少年少女にとってサッカーをプレーするきっかけとなった。コミックスの世界累計発行部数は9千万部を超え、1983、1994、2001年にはテレビアニメ化され、劇場版も製作。舞台化もされた。 

FIFA女子ワールドカップドイツ2011 なでしこジャパン(日本女子代表チーム) 

日本サッカー史上初のFIFA大会制覇を果たした。この年は大会前の3月に東日本大震災が発生。日本中が悲嘆に暮れる中、なでしこジャパンがひたむきに、決して諦めることなく戦い、優勝を果たしたことが日本全体を勇気づけたとして、団体としては初の国民栄誉賞に輝いた。 

第19回日本サッカー殿堂 掲額者

第19回日本サッカー殿堂 掲額式典で感動の一コマがありました。掲額者が関係者と共に名誉総裁 高円宮妃久子殿下と記念撮影をする際、奥様と撮影をしていた大仁さんになでしこジャパン(日本女子代表)のメンバーが駆け寄り、急遽、一緒に撮影をしたのです。同じ時代を戦った者たちの絆を感じるシーンでした。それがこの記事のトップの写真です。 

どん底での就任から始まった大仁邦彌さんとなでしこジャパン躍進の時代

大仁さんが日本サッカー協会の女子委員長に就任したのは2002年。女子サッカーは多くの人から忘れられていました。なぜなら、日本女子代表がシドニーオリンピック(2000年)の出場権を失い世間からの注目を集められなくなり、多数の企業が女子サッカー支援から撤退していたからです。Lリーグ(現・なでしこリーグ)は経費節減のため、多くの試合会場をスタジアムからグラウンドに変更。全国リーグではなく東西リーグの上位各2チームが4チームで決勝リーグを戦って優勝を決める方式になっていました。大仁さんと女子サッカーの関わりはどん底から始まったのです。 

では、ここで大仁さんとなでしこジャパン躍進が歩んだ時代を振り返ってみましょう。 

大仁邦彌さん

日本サッカー協会は2002年に就任した川淵三郎キャプテン(当時)が、就任早々に9つの「キャプテンズ・ミッション」を掲げました。その6番目に「女子サッカーの活性化」が盛り込まれていました。普及活動の強化と同時に着手したのは日本女子代表の監督人事。ベルマーレ平塚やマカオ代表の監督(日本人初の海外A代表監督)を務めた上田栄治さんを招聘したのです。当時、Jリーグでの監督経験者を女子サッカー界に投入するのは極めて異例のことでした。 

上田監督の就任により日本女子代表はFIFA女子ワールドカップアメリカ2003の出場権を獲得を目指し、なんとか出場権を確保するのですが、その道のりは険しかったです。 

アジア地区(AFC)の出場権を獲得できず、北中米カリブ海地区とのプレーオフにラストチャンスを賭けることになりました。対戦相手はメキシコ女子代表。アウェイの試合会場は高地のメキシコシティにあるアステカスタジアムに決まりました。日本サッカー史上、最も過酷なアウェイ遠征として、今も語り継がれています。 

意気揚々と乗り込んだ日本女子代表ですが、酸素の薄い高地の気候に苦しんだ上に、原因不明の下痢に半分以上の選手が襲われます。しかも、スタジアムで待ち受けるのは10万人の大観衆。このピンチに、同行していた大仁さんは「災いを転じて福となせ」と激励。日本女子代表は、なんとか2−2で引き分けました。 

人気爆発「なでしこジャパン誕生」へ

「選手は点滴を打って試合に臨んだ」……その激戦の噂は、瞬く間にサッカーファンに広がりました。ここまで閑古鳥が鳴いていた女子サッカーですが、国立競技場で行われたホームゲームには1万2千743人のファン・サポーターが集結。澤穂希さんと丸山桂里奈さんの得点で2−0とメキシコ女子代表を退け、辛くも出場権を獲得したのでした。この試合は、プレッシャーに動じない丸山桂里奈伝説の始まりでもありました。 

この後、どうしても女子サッカーの人気定着を図りたい日本サッカー協会は、FIFA女子ワールドカップに続きオリンピック出場を目指します。2004年に開催されるアテネオリンピックのアジア地区予選を日本に招致。2億5千400万円もの予算を投じます。最大のライバルとなる北朝鮮女子代表を広島開催のA組とし、日本女子代表は東京で戦うC組に。そして、順当に勝ち上がれば、出場国決定戦となる準決勝を東京開催とし、北朝鮮女子代表に移動を強いるホームアドバンテージも駆使しました。 

日本サッカー協会が総力を挙げて取り組んだ一大決戦にメディアも協力。北朝鮮女子代表との一戦には3万1千324人のファン・サポーターが詰め掛けました。ここまで7年間も勝つことができなかった北朝鮮女子代表を相手に、日本女子代表は3−0と完勝。見事にアテネオリンピックの出場権を獲得します。北朝鮮女子代表選手は試合後のインタビューで「大歓声のスタンドに慣れず力を発揮できなかった」と話しました。生中継の最高瞬間視聴率は31.1%。この一戦で日本女子代表選手の人気が爆発。愛称が募集され、審査の結果、なでしこジャパンと命名されました。「なでしこ」の四文字により、日本女子代表には、これまでとは全く異なる意味と価値が宿りました。 

2004年の新語・流行語大賞でなでしこジャパンは大賞にノミネート。大ブーム(第一期なでしこブーム)を生み出すと共に、その後に多々誕生する各種団体競技の「⚪︎⚪︎ジャパン」命名の先駆けとなりました。実は、この躍進の陰にも大仁さんの尽力がありました。前年度から年間約100日にも及ぶ代表合宿を組んだのです。大仁さんが女子委員長として「女子代表の活躍を日本の女子サッカー界全体の起爆剤にしよう」と呼びかけ各所属チームの協力を得たために実現した異例の強化日程でした。 

狙い通り、2004年のアテネオリンピックから女子サッカーをめぐる環境は改善していきます。2006年には株式会社モックがLリーグの冠スポンサーとなりモックなでしこリーグと称して開催。これを置き土産に、この年、大仁さんは女子委員長を退任します。そして、日本サッカー協会の副会長に就任します。 

なでしこジャパンの進む道を定めた「ARIGTO 謝謝 CHINA」

日本サッカー協会副会長の大仁さんはFIFA女子ワールドカップ中国2007に団長として参加します。なでしこジャパン(日本女子代表)は第1節と第2節を上海で戦いました。当時のFIFA女子ワールドカップは、今ほどの大会規模になっておらず、同じ開催都市で試合をするチームが集まり同じホテルに宿泊。毎日が落ち着かない空気の中にありましたが選手たちにベストな環境を提供するために尽力します。 

当時は中国国内に反日感情が高まり、なでしこジャパン(日本女子代表)は地元のファンから無用なブーイングや罵声を受けることもありました。なでしこジャパン(日本女子代表)はイングランド女子代表、ドイツ女子代表と同組。本来の力を発揮することができずグループステージで敗退します。その際に「ARIGTO 謝謝 CHINA」と書かれた横断幕をフィールドで広げ中国を去りました。この横断幕は世界的に話題となり、中国の地元メディアは「中国のブーイングは日本の横断幕に負けた」と開催国の観戦マナーを批判するに至りました。こうした柔和かつ堂々たる姿勢は、FIFA女子ワールドカップ ドイツ2011で、世界各国からの東日本大震災の復興支援に感謝する横断幕メッセージを掲出することにつながり、その姿勢は今のなでしこジャパン(日本女子代表)や女子サッカー界に受け継がれています。 

ここまでが女子サッカーどん底から躍進へ、大仁邦彌さんの女子サッカーに関する偉大な功績です。大仁さんは 2012年に第13代の日本サッカー協会会長に就任します(2016年まで)。なでしこジャパン(日本女子代表)が世界一に輝いた翌年のことです。 

女子サッカー関係者を励まし続けた大仁さん

ここまでに記したのは、周囲の人の記憶と記録から辿った日本の女子サッカーの歴史です。では、当事者の大仁さんご自身は、どのように振り返り、掲額をどのように語るのでしょうか。式典終了後に聞いてみました。返ってきたのは、このような答えでした。 

「名誉なことで大変ありがたく思っています。ただ、やっぱり選手で殿堂入りしたら、これは自分の力です。(自分の掲額は)それじゃないということは周りの皆さんのサポートがあってのことなのです。それから、5月末で結婚50周年でした。ここまで、かみさんにもいろいろ支えてもらいました。」 

ただ、周囲からのサポートは誰でも得られるものではありません。やはり、大仁さんだからこそ、多くの人が一緒に歴史を築いてきたのではないでしょうか。そのお人柄と気遣いはずっと変わりません。 

こんなエピソードがあります。2006年6月18日、FIFAワールドカップ ドイツ2006で日本代表はクロアチア代表戦に引き分けました。残す試合はブラジル代表戦のみ。グループリーグ突破が絶望視される重苦しいムードの中で試合後に行われたJFA関係者の食事会に筆者は参加し、(長沼健さんお奥様から推薦を受けてしまったので突然に)スピーチをする機会を得ました。あまりに悲観的なムードだったので「若い人の話も聞こう」という趣旨だったと思います。全国のサッカー協会会長、長沼健さん、野村尊敬さん、綾部美知枝さんらサッカー界の重鎮の集まる場に似つかわしくない筆者のスピーチは果たしてどうだったのか……翌日にお会いした大仁さんは、初対面にもかかわらず筆者の顔を見るなり、いきなり声をかけてくれました。 

「君、昨日のスピーチすごく良かったよ!」 

それが、当時の筆者にどれほどの自信になったことか。大仁さんは、そうした励ましをされる方なのです。筆者のみならず、多くの人が大仁さんに励まされました。大仁さんはFIFA女子ワールドカップドイツ2011でもなでしこジャパン(日本女子代表)に帯同しました。試合前に上映するモチベーション動画。そこには東日本大震災の被災の様子が盛り込まれていました。選手は、それを見て「被災地の皆さんのためにも」と決意新たにピッチに向かうのですが、大仁さんは、どのような気持ちで、その動画を見つめていたのでしょうか。以前、ご本人の口からは「何回見ても『もう頑張るしかない』『私たちがやるしかない』って私が見ていてもそういう気持ちでした」とインタビューに答えています。

我々が被災地の方々から大きな力をもらった 大仁邦彌さん(JFA最高顧問)震災10年インタビュー

大仁さんは、2003年から2009年まで (株)日本フットボールヴィレッジ(Jヴィレッジ)の代表取締役副社長を務め福島県に住み、東京電力女子サッカー部マリーゼ(東日本大震災により活動を停止)にも関わっていました。 

2007年 Jヴィレッジオープン10周年記念アニバーサリーサッカーフェスタにて 左に大仁邦彌さん

掲額式典で、なでしこジャパン(日本女子代表)のメンバーが大仁さんに駆け寄ったシーンに、大仁さんと女子サッカーとの素敵な関係が表れていました。胸が熱くなるシーンです。 

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