森マガ

反町康治は日本サッカーをどう見ていたのか?…技術委員長を退任した男の危機感【サッカー、ときどきごはん】

 

日本サッカー協会の技術委員長を3月末に退任
日本のサッカーを4年間支えてきた人物は
いくつもの転機を乗り越えてきた
自宅から出られなくなったこともある

クセの強い人物であることは間違いない
新チームで初めて勝利を収めたとき
ロッカールームから出てくると「オレって持ってるね」と一言
そんなお茶目な部分もある反町康治氏に半生とオススメの店を聞いた

 

■転機になった田嶋幸三前会長からのオファー

これまでの人生で苦しかったのは何回かあったんだけど、やっぱり転機の時ですかね。3月末で日本サッカー協会の技術委員長を辞めることになった時のような。これから先はどうなるのかと思って。

1981年に清水東高校を卒業して浪人しようと思った時(編集部註:1浪の後、慶応義塾大学入学)や、1993年にJリーグが始まった時は横浜フリューゲルスでプレーしていたけど全日本空輸(全日空)に所属するアマチュア契約で、1994年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に入る際に葛藤があったけどプロに転向した時とか。1997年に現役を引退して指導者になるかどうか、どういう方向で生活していこうか考えた時とか。

Jリーグが始まったとき、29歳だったんですよ。それが30歳になる年に全日空を退社してプロになったんですけど、景気の停滞も見え始めていた頃だったし、Jリーグブームもひとときほどじゃなかったし。何よりまだ終身雇用制がしっかり残っていた時代でした。「よくそんな保証のない世界に飛び込んだもんだ」と先日言われて、確かに言われてみたらそうだなと思います。

だけど、そこで決断できたのは……なんと言うか「ピンチはチャンス」だった、わけじゃないけども(笑)、あんまりシリアスに考えないようにしているっていうのもあるから。

会社を辞めると決めたのは、やっぱりJリーグのスタートが大きなターニングポイントですね。世の中の状況とか、Jリーグが始まって、もちろん浮き沈みはあるにしても、日本の社会、スポーツ界で重要なコンテンツになると感じられたからです。

つまりそれは仕事がこれからも拡大していって、その中でやっていけるという自信が少なからずあったからでしょうね。また、これから先は「会社員としてずっと定年まで勤める」という時代ではなくなってくるだろうというような予感もありました。

だからそういう色々なものに鑑みて、一応立ち止まって考えていた部分はあるものの、 そんなこと言っていると進むものも進まないと、ある意味直感で決めているところもあります。結局、「後で振り返ってみた場合にどう思うか」ということを考えていると物事は進まないので。だから自分の決断に対してしっかり責任を持ってやることを考えていました。

今振り返ると、もしもプロになった30歳のころ、会社の中に仕事に関する人脈があれば、もしかしたら会社に残っていたほうが良かったかもしれないですね。だけどそうじゃなかった。だから、会社を辞めて大きなデメリットはないとも思っていました。

それにやっぱり、なんだかんだ言ってもサッカーがずっと好きだったんです。ずっと子供のころからプレーしていて、それが「好きこそものの上手なれ」じゃないけども、プロになれるところまで来た。

だって好きなことで、たとえば歌を歌うのが好きで、それで歌手になれたらやっぱりいいじゃないですか。それと同じですよ。もちろん歌手を目指してうまくいかなかった人がほとんどなのかもしれない。けれど、歌をずっと続けられるような、そんな自信というか、バックボーンが自分にはあったのではないかと思います。

現役選手を終えた時も、どうするか考えましたね。指導者、解説者、あるいは会社を経営するとか、いろんな方向があったと思います。引退するとその後の仕事は大体いくつかの種類に分かれますが、どれでもある程度やっていく自信があったとも言えるし、やっていかなければいけないという強迫観念に突き動かされた気もします。でも焦らず半年後にスペインのバルセロナにサッカーの勉強をしに行きました。FCバルセロナで研修をして指導者とはどういうものかを教わり指導者の道に進みました。

2019年に松本山雅の監督を辞めた時も同じようなことはありましたよ。「次どうしようか」と心配しつつも、かなり精神的に参っていたから半年ぐらい休もうかとも思っていました。だからDAZNの解説の講習会にも1回行ったんです。そうしたら2020年2月でしたかね、田嶋幸三日本サッカー協会前会長から連絡があったんです。

前会長は「もう答えは分かっているかもしれないのだけれど」と言いながら「今後どうするんだ」と聞かれたのですよ。「技術委員長のオファーを出そうと思っているのだけど」と続けて。

たぶん僕が断ると思っていたのでしょうね。大学卒業後アマ、プロで10年間現役でプレーして、2001年から2019年までの19年間は指導者としてやってきて、ずっと現場を歩いてきましたからね。実際、僕も即答出来なかったです。「ちょっと考えさせてください」って。

だけど、結局オファーを受けることにしたんです。そしてやると決めたからには、ちゃんといろんな気持ちを整理しなければいけないと思いました。それでも、現場を離れることになるから苦しいとはあまり思わなかったですけどね。それから4年間続けさせてもらいました。

 

■北京五輪後は外に出られなかった

苦しかったといえば、監督として臨んだ2008年北京五輪の後は辛かったですね。やっぱり。

 

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