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あの時、佐藤由紀彦はバーンアウトしていた……引退の崖っぷちで捨てた「ちっぽけな」プライド【サッカーときどき、ごはん】

(c)Miki SANO

 

人知れず地道な努力を重ね、咲かせる花はひときわ美しく見える。
高校時代から華のあるプレーヤーとして人気を集めた佐藤由紀彦は、プロ入り後、泥水をすする覚悟で手にした片道切符からキャリアを積み上げてきた忍耐の人だった。
挫折と成功を繰り返しながら、ひたむきにサッカーと向き合い続けてきたイバラの道を振り返ってもらいながら、指導者としてのこれからの想いを聞いた。

 

■燃え尽きて……本気でサッカーを辞めようと思っていた3年間

1995年、最初に清水エスパルスに入団したときは3年間なかなか出場機会に恵まれなかったんです。あの当時の清水にはノボリ(澤登正朗)さんもいたし、長谷川健太さんもいたし、伊東輝悦さんもいて、すごい人が揃ってました。僕はトップ下だったんですが、特に中盤は激戦区で、しかもそこに外国籍選手まで来て、メンバーに入れなかったですね。

それに子供のころからプロサッカー選手になることが最終目的だったので、清水に入ったとき、燃え尽き症候群(バーンアウト)と言うか、目標が達成できて少しモチベーションを失ってたんですよ。なかなか気持ちが上がらなかったですね。あの3年間は振り返ると辛かったかな、と。本気でサッカー辞めようかとか考えましたもん。

それを乗り越えようということで1998年、モンテディオ山形に期限付き移籍したんです。もう1回、必死にサッカーに向き合ってた中学時代とか高校時代に戻りたいと思って。遠い所に行きたかったんですよ。カテゴリーも土地にも自分には全く縁がないところに身を置きたくて。背水の陣と言いましょうか。「ここダメだったらもう最後かな」と思って。

そういう移籍だったというのと、あの当時は移籍で1回クラブを出るということに対しての考え方が非常にネガティブで、しかも片道切符で戻ってこられないことも多くて。だから周りからはものすごく反対されました。ただ自分がもう1年、清水でプロ4年目を過ごしてみたとしても、先はもう見えたかなと思ってアクションを起こしてみたんです。

あのころの山形は石崎信弘監督で、ヘッドコーチが手倉森誠さんでしたね。誠さんがフィジコも兼任してたんですけど、それだけじゃなくてときには選手役としてプレーにも入ってという、そういうチームでした。

偉大なスタッフと面白い選手がいたけど、ハードが整ってなかったし、何せ生活の一部にサッカーが入り込んでいる清水と、まだまだそういうレベルまでいっていない山形というところの温度差はありました。清水であった「常」が山形ではそうじゃなかったり、ギャップはありました。

日々の洗濯も持って帰って自分でやりましたね。クラブハウスがなかったので外で着替えるんですが、車の後ろのドアを開けて隠しながら着替えるんですよ。あとは公園の水道で体を洗ったりとか、静岡の高校サッカーのほうがお客さんが入ってたし。そういう環境でサッカーをしてみました。

そういうあまり整ってない環境だったんですけど、でもね、それが楽しかったんですよ。自分がいかに恵まれた場所でサッカーをやってたか実感しましたし、そういう恩恵があったのはモチベーションが上がらなかった原因の1つだったと分かりました。

チームメイトがそういう環境をポジティブに受け止めてしっかりやっている姿に感銘を受けて、それに引っ張られましたね。仲間の言動や行動を見て非常に感銘を受けて、自分に足りないのはこういうことかって。

そしてそんな厳しい条件なのに、言い訳をせず資金があるクラブに真っ向から挑んでいく石さんとか手倉森さんの姿を見て感じるものがあって。結局最後は人なんだ、すべて捉え方なんだってことが分かりました。逆に、それまでいろんな人の支えがあって自分が成り立っていたというのを、恥ずかしい話ですけど清水では気付かなかったですね。

 

■最初はやりたくなかった右サイドでのプレー

1年間山形で過ごして、そこから1999年にFC東京に行ったんです。東京から一番最初にオファーをいただいたんですよ。当時の強化部長の鈴木徳彦さんと話をして、ビジョンがすごく面白そうだというところで。

当時、東京はJ2だったんですが、JFLの山形で1年間プレーしたからJ1の清水に戻りたいという気持ちじゃなくて、J2でもいいから東京でチャレンジしてみたいと感じたんです。カテゴリーではなく、クラブに惹かれました。

それに自分には清水と山形という比較できる経験があったから、20代前半だったんですが、もしかしたら人より客観的に自分がプレーするクラブを見られたかもしれないと思います。だから東京はどういうクラブか判断できましたし、非常にスピーディーに大きく成長していくクラブだというのが分かった、と言いますか、選手として自分が望んでいたクラブとしてのポテンシャルを持っていると思いました。

僕は高校の時も清水でも、山形でもトップ下でした。東京も元々トップ下で補強という話でしたし、そう思って僕も加入したわけですが、開幕前にプレシーズンを何試合かやっていたら、当時の大熊清監督の理想に合わないトップ下だったんですね。

大熊監督からも「自分のイメージのトップ下ではない」と直接ハッキリ言われました。そこからですね、右サイドをやり始めたのは。最初はイヤでした。やっぱりやりたくなかったですよ。

 

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