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[Fリーガーのセカンドキャリア]元湘南・岸本武志「ベルマーレフットボールアカデミーでコーチを務めています」(2013/9/18)

1_岸本武志
藤沢市の馬入サッカー場でジュニア世代のサッカー指導にあたる岸本武志。第2の人生は充実した日々だという。

 

岸本武志、35歳。昨シーズンまでFリーグ・湘南ベルマーレで活躍したフィクソだ。体を張ったディフェンスはもちろん、ピヴォのボラへのオフェンシブなパスで存在感を存分に放っていたプレーぶりを今でも惜しむ声は多い。記者もそのひとりだ。特にパワープレーでのゴレイロとしてのボールさばきの鮮やかさは目に焼きついている。そう、パワープレーはビハインドを負っているときに選択する戦術。そのときのプレーが鮮烈な印象として残っているように2011年〜2013年シーズンまでの3年間、ベルマーレは勝ち星に恵まれなかった。チームが好調の今季、彼がまだ現役だったら最後尾で勝利を支える仕事ぶりは冴えわたったに違いないと思うのは記者だけだろうか。その岸本は今、ベルマーレフットボールアカデミーでジュニア世代の指導にあたっている。指導テーマをひと言でいうと「サッカー選手に足裏の技術を伝授することでプレーの幅を広げる」に尽きる。同アカデミーで岸本はボラと一緒に指導にあたっている。そのボラに記者が一翼を担っているフリーマガジンで取材にあたり、岸本には彼の通訳を買って出てもらった。Fリーガーのセカンドキャリアという記者の念願のインタビューは、岸本のポルトガル語のことと13歳からの10年間を過ごしたブラジルのことから始まった。

 

まとめ◆デジタルピヴォ! 山下

 

ブラジルの中学校で語学を学ぶ

 

Pivo! たった今、ブラジル人選手ボラのインタビューのためにキミに通訳をやってもらって、ポルトガル語を理解しない人間がこんなことをいうのもおかしいけど、言葉が次々と流れるように出てくる。サッカー留学した日本人に通訳を頼んだ例はあるが、その人たちと比べると、キミのポルトガル語は本物という印象を受ける。ボラも「タケシのポルトガル語は実に正確だ」といっていた。

 

岸本 いい言葉を話せるようになるうえで一番大きかったと思うのは、ブラジルに行ってサッカークラブの寮に入ったんですけど、寮にいるブラジル人たちって、僕がいうのも失礼かもしれないけど教育をしっかり受けていないためにブラジル人なのにポルトガル語をしっかりとしゃべれない、文字を書けない、そういう選手が多かった。その中に日本人が来てそこで覚える言葉って、そんなにいい言葉じゃないケースが多いんですよね。だからサッカー的なポルトガル語ではなくて、大学受験を目指している弁護士とか医者になる子たちのいる中学校に僕は最初から入ったんです。もちろんすごくしんどかったんですけど、でもそれが多分、振り返ればそういう環境でやってきた分、言葉に関してはしっかりした教育を受けることができたと思っています。

 

Pivo! 岸本選手といえば10年間のブラジル生活が有名だ。その10年間を振り返ってほしい。地元大阪で最初に所属したサッカーチームが高槻FC?

 

岸本 そうですね。小学校2年生、8歳のときから、ブラジル行く前までなんで、中1の1学期のちょっとぐらいまではいましたね。

 

Pivo! そして念願のブラジルに渡り、最初のサッカーチームがロンドリーナエスポルチクルビ。ここでブラジル生活の第一歩を記した。

 

岸本 そうです。最初のクラブです。入ったのが中学1年の夏、7月ですね。4月までは地元大阪の小学校に行ってて中学の1学期が終わる前に行きましたね。

 

Pivo! 中1の7月に単身、ブラジルへ。その決意のきっかけとなったのは?

 

岸本 う〜ん、自分の中で、当時のブラジルでプロになるということがすごく難しいということは自分でも理解してたので、とにかくどこまで通用するかっていうのを試してみたい、チャレンジしてみたいという気持ちが大きかったです。

 

Pivo! 年代的には、カズの影響もあった?

 

岸本 ありました、ありました。だからちょうど僕が小学校4年生と5年生のとき、当時日本リーグのヤンマーがセレッソになる前に、そこにブラジル人のジョナスっていう選手がいました。後で住友へ行ってジーコの通訳をしていた方なんですけど、その方が夏に僕がいた高槻FCにクリニックで来てくれて、そこでなぜか知らないですけど“ブラジルに行ったほうがいいよ”みたいなことを当時の僕の監督さんにいってくれたんです。5年生のときも来てくれて。そのときも同じようにいわれたので、その頃からですね、ブラジルに行ってみたいという気持ちが芽生えてきたのは。

 

Pivo! ジョナスさんはキミのサッカー選手としてのセンスに気づいてくれて、ブラジルでそのセンスに磨きをかけるべきだとアドバイスしてくれた。

 

岸本 どうですかね、そこまでは分からないですけど。で、ちょうどそのタイミングで、カズさんが「ブラジルでプロになった男」みたいな形でテレビに出始めたんですね。それで、“あ、そういう人もいるんだ”という感じになってより一層自分もチャレンジしてみたいという気持ちに当時なったのを覚えてます。

 

朝は学校、昼はサッカー、夜はフットサル

 

Pivo! で、2001年に藤井健太たちがつくったあのフットサルチーム、BORDONに入るんだけど、それまでの正味10年、ブラジルにいた。その間に所属していたP.S.C.Tロンドリーナエスポルチクルビというのはサッカーチーム?

 

岸本 サッカーチームですね。この間も、ロンドリーナでずっとやってたんですよ。ただこのフットサルチームACELっていうのは、ちょうどロンドリーナで一緒にやってたメンバーがジュニアからユースに上がったときに、そのうちの何人かが小さいころからずっとフットサルをやってたんですね。彼らはロンドリーナでサッカーを、ACELでフットサルの両方をやってたんですね。そこで誘ってもらって、だからそこからですね、朝は高校に行って、昼はサッカーの練習に行って、夜はフットサルの練習に行ってたんですね。でもサッカーのほうにフットサルをやってるのがバレたらあかんみたいなのがあったんですね、ブラジル人たちの中に。

 

Pivo! そうなんだ!

 

岸本 そうなんですよ。で、あまり表立ってフットサルやってるっていうよりはサッカーの試合がないときに週末そこに行くみたいな感じでした。彼らと一緒に行動してた感じですね。

 

Pivo! P.S.C.Tっていうのは関野淳太くん(現ペスカドーラ町田監督)が所属してたクラブだよね?

 

岸本 そうです! そこはサッカークラブでジュニオールの時代ですから18歳から20歳までの、次,プロに上がる選手たちが行く所です。ご存知かもしれないですけど、ここはプロチームがないので、プロ養成所みたいなチームなんですね。

 

Pivo! あ、そうか、パラナ州のサッカーテクニカルセンターだものね。

 

岸本 そこでサッカー一本になったんで、午前と午後の2部練習をして夜、高校に行くみたいな生活でしたね。

 

Pivo! そうするとプロチームは?

 

岸本 ロンドリーナ市にプロチームはロンドリーナエスポルチクルビとポルトゲーザ ロンドリネンセというのがあったんですね。そのポルトゲーザと契約できたので、そこでプレーしました。

 

Pivo! で、22歳までプレーした。

 

岸本 そうですね、23歳になるくらいまでプレーしましたね。

 

Pivo! 10年間のブラジル生活で一番の思い出って何?

 

岸本 う〜ん、そうですねえ、ま、やっぱり自分自身をどこまでこう高められるかっていう部分ですよね。結局、どの世界でもそうかもしれないですけど、行った当時(パラナ州には)日本人はいなかったし、今では留学は普通かもしれないですけど当時は“日本人が何故サッカーしに来てんだ”といわれた時代でもあったので、認めてもらうっていうのがそんなに簡単じゃなかった。でも逆にブラジル人って結果次第で、日本人だろうが何人だろうが認めて、そのためにはとことん、いい訳なしに自分をとにかく高めて認めてもらうしかないっていうのをやってきたんですけど、そこですかね。それに年ごとに上のレベルのチームに上がれるかどうかっていう、そういう勝負の連続だったので。僕の中にはレギュラーでも、ベンチ外でも自分を高めることを徹底してやらないと、という環境だったので。ブラジルでの思い出はたくさんありますけど、ずっと思ってやってきたところはそこですよね。もちろん、それはいまでも変わってないところではありますけど。

 

アドリアーノ監督に多くを学んだ大阪時代

 

Pivo! 時間は少し飛んで、2007年のFリーグ元年にシュライカー大阪に入団して、いきなりキャプテンを務めた。

 

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