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「名前」の賞味期限は2年しかない…伊野波雅彦はなぜサッカーの現場を離れたのか?【サッカー、ときどきごはん】

現役時代は朴訥(ぼくとつ)とした感じだった
口数は多くないしボソボソと話す
ただ時折ボケをかましてくれていたことを考えると
当時から頭の回転は速かったのだろう

現役を引退したあとには意外なビジネスに進んだ
しかもしっかり成功を収めている
今現在の自分の生き様を
熱く語ってくれる伊野波雅彦に半生とオススメの店を聞いた

 

■カタールで甦ったザックJAPANの記憶

来年、カタールでアジアカップなんですね。知らなかった(苦笑)。

実は知り合いの方に誘われて2022年カタールワールドカップの決勝を観に行ったんですよ。カタールは2011年アジアカップで優勝した場所だったんで感動がよみがえりました。

ただ今までだったら、ほんとに「自分が出場できなくて悔しい」とか「うらやましい」とか、そういう感覚があったんです。けれど、試合を見ていてそういったものがなくなってました。

決勝戦を見ながら純粋に「すげぇ」と思ったんですよね。今まで自分の中でそういう感覚がなかったんです。年齢的なところも、選手生活の終盤的なところもあったからだろうと思います。そう思ったタイミングで、自分の気持ちとしても「現役はもう終わりかな」と感じて引退したんですよ。自分は感覚を大事にしてるんで、そこで決断しました。我慢して現役を続けようというタイプじゃないんで。

いろんなつながりというか、そういうのも感じてました。中学時代にブラジルに留学して、2014年ブラジルワールドカップのメンバーに選ばれたし、全国高校サッカー選手権大会の準決勝は国立競技場だったんですけど累積警告で出られなくて、でもプロになってFC東京での初ゴールが国立で。アジアカップで優勝したカタールで決勝戦を見て現役を引退して。なんか、あるんでしょうね。

2011年カタールアジアカップのときは、グループリーグ第3戦のサウジアラビア戦でアシストを決めて、次の準々決勝のカタール戦に出たんです。ところがカタール戦は12分、僕がラインを上げるのが遅れたのでオフサイドが取れなくて先制されたんです。

28分に岡崎慎司のシュートを香川真司が詰めて同点に追いついたけど、61分に吉田麻也が退場になり、そのFKを決められてまたリードされちゃって。それでも香川が70分に同点にしてくれて、そのまま89分まで一進一退の展開でした。

アルベルト・ザッケローニ監督は延長も考えて、長友佑都を通じて僕に「上がるな」って指示を出してきたんです。でも自分の中では何とかして取り返したいという気持ちもあって、「これは一か八かだ」と思って上がっていったらボールが来て、89分に決勝点を決められました。

だけどね、あとでザックに怒られました(笑)。バンバン叩かれて。でも指示守らなかった僕をその後も使ってくれたんですよね。求められてることはやろうとしてたからでしょうね。

ザックって優しくて、話を聞きに行ったらいろいろ教えてくれるんです。プレーのことだけじゃなくてファビオ・カンナバーロやイバン・コルドバがどんな選手だったかとかも話してくれたし。コミュニケーションの取りやすい監督でした。

ホント、カタールはいろいろ懐かしかったですけど、ワールドカップに行ったときはもう街がすっかり変わってました。そうそう、ヴィッセル神戸の監督だったフアン・マヌエル・リージョに会うことができました。去年はアル・サッドの監督を務めてたんですけど、今年はまたマンチェスター・シティに戻っていて「いつでも勉強しに来い」と言ってもらいました。

アジアカップと言えば2007年4カ国(タイ・ベトナム・マレーシア・インドネシア)共催アジアカップにも行きました。あの時のチームにはU-20日本代表で一緒だった水野晃樹とか入ってたんですけど、最初僕は外れてたんです。ところが播戸竜二さんがケガで行けなくて急きょ代わりに呼ばれたんですよ。

実はアジアカップの期間はオフだったんで、沖縄へ旅行に行く予定だったんです。いろいろ買い物をしてたらFC東京の強化育成部長から電話がかかってきました。ただ「まさか追加招集はないでしょ」と思ってるから、わざと電話を取らなかったんですよね。沖縄行きたかったし。

でも2回、3回とかかってくるんで、妻と「これ、日本代表に入ったんじゃないか」みたいな話にもなったんです。それでもFWの播戸さんがケガしたので守備の選手の僕じゃないと思って「だったら出ても大丈夫だよね」って電話を取ったら「ベトナムのハノイに行ってください」って。

そして行ったあのアジアカップは最悪でしたよね(笑)。ハノイからインドネシアのジャカルタに飛ぶとき、飛行機の便が確保してあったのになぜかキャンセルされてて、結局到着が深夜になったし。ジャカルタから試合会場のパレンバンへの移動も遅れて、前日練習もほぼできないみたいな。そんな中で韓国と試合をしてPK戦で負けましたからね。

代表入りの電話連絡と言えば、2014年ブラジルワールドカップのときも電話だったんです。ワールドカップのメンバー発表の日、当時所属していたジュビロ磐田がJ2だったんで、メンバー入りは難しいと思ってました。

だから「メンバー発表記者会見の中継を見たらしんどい」と思って、鹿島時代にお世話になってた人とテレビのないところでご飯を食べてたんです。そうしたら携帯が鳴り始めたんで、「あ、入ったわ」って。

2014年ブラジルワールドカップの日本代表はいいチームでしたね。1勝もできずにグループリーグ最下位で敗退したんですけど。でも、それもサッカーだし、スポーツだし。それはそれで人生のいい経験になりましたよ。

ブラジルワールドカップの日本代表には賛否両論両方の人がいて、いろんなことも言われたし、いろんなふうに書かれたりしたけど、それもある意味、「楽しかったな」とか「メンタル強くなったな」とか。人生の一部としてはなんか楽しかったなって考えてて、別に嫌じゃなかったし。

当時いろいろ言う人もいるだろうとは思ったし、でも応援してくれる人はいたし。いろんなところで批判されてたのは、もちろん気にはなってたんですよ。「あ、自分がこう言われてるな」とは思うんですけど、「反論してもしゃあないしな」みたいな。

今、社会人になって、そうやってバッシングを受けることも少なくなったし、逆にね、自分が新しいイメージを一からまたつけられたなと思うし。現役終わっちゃうとやっぱり「名前」って忘れられがちなんで。

 

(C)日本蹴球合同会社

 

■「名前」の賞味期限は2年しかない

2022年12月に引退して、サッカーの現場を離れて今約1年ぐらい経つんですけど、やっぱり現場に行くと、そこでしか味わえない高揚感もあるんです。ただ、多分内部で一緒に仕事をしてないと、本当の感覚は持てないんですよね。優勝目指してるとか、残留目指してるとか、その中で一緒に1年間仕事をしないと味わえない喜びとか悲しさってあるんです。

けれど、それが本当はどういうものか現場を離れないと分からないだろうと思ったんです。その上で本当に「現場がいい」と思ったら戻ろうという決心がありました。

僕、母一人に育てられてて、中学校もほぼ一人暮らしみたいな生活をしてたし、一人でいることも多かったんです。ただその分、周りにいる人には恵まれましたね。だから、僕はサッカーに恩を返したいと思ってます。

つながりを持てたのもサッカーがあったからだし。サッカーのおかげでいろんなところ、いろんな地域、全国もそうだし世界もそうだし、つながりができたんです。だからサッカーに対してコミットしたいんで、準備して戻りたいのがあったんです。

それに、僕は小学校から中学校に上がる時は別の区の生目台中学校に行って、中学校から高校も生まれ故郷の宮崎から鹿児島の鹿児島実業高等学校に行ったんです。で、鹿児島から大阪の阪南大学、そこからFC東京、FC東京から鹿島に行ってという感じで、結構、環境を変えるのが好きなんです。

いい意味でも悪い意味でも「飽きる」というか。自分の環境の立ち位置が決まった段階で、飽きちゃうんです。小さいころから刺激が欲しくて、次のところを求めたり。だから中学時代にブラジルのリオデジャネイロに2回短期留学したし、そういうのが別に苦じゃないし。

新しいものを求める、悪く言うと継続性がない部分もあるかもしれないんですけど、新しいものを求めて動くっていうところに、あんまりストレスを感じないんですね。

小学校3年生からずっとサッカーを続けて37歳までやって、ちょっと1回離れて、どういう感覚になるかも見たかったし、今の仕事を始めるタイミングもよかったんで。元日本代表という肩書きを持つ人は、今たくさんいますからね。

それでなにかまた別のものでチャレンジしたいというか。自分の中では「過去は過去」と思ってるんで。それに「名前」の賞味期限2年しかないとずっと思ってますから。

だから20歳から25歳は成長のために使って、25歳から30歳は引退した後のことも考えて、30歳から35歳はキャリアの終盤に来てるんで、サッカーが続けられるようにがんばるのはもちろんとして、次のことに向けて準備すると決めてました。実際は37歳までプレーできたんですけど。

 

■南葛SCでの出会いが引退後につながった

今はグッズを作るビジネスをしています。きっかけは現役最後に所属した南葛SCでした。

 

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