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試合に出られないのは監督のせい……ジュビロで腐りかけていた大井健太郎を救った先輩の言葉【サッカー、ときどきごはん】

サッカー選手としての大きな岐路は間違いなくそのときだったに違いない。
そしてその岐路で見事に這い上がったからこそ、現在の達観した境地に至ったとも言えるだろう。
30代半ばを過ぎてもまだまだ現役に強いこだわりを見せる彼が見ている過去と現在と未来とは? そして、もっと早く気づいていれば良かったと思っていることとは何なのか?

 

■「自分を使ってくれない」ヤンツーさんとの深い因縁

やっぱり、サッカー選手なんで試合に出られてないときはキツいですね。独身のときもそうだったんですけど、特に2009年に結婚して家族ができてからは責任も伴ってますし。一生懸命応援してくれてるのに試合に出てる姿を見せられないっていうのは、妻も子供もすごく悲しむので、そういうのは苦しいです。

2003年、柳下正明監督のときジュビロ磐田でプロになって、2年目から少しずつ試合に出るようになったんですけど、プロになって最初の4年間、2006年までって出番がほとんどない苦しい時期が続いたんです。

特に最初の1、2年は、自分でも試合に出られる気がしないぐらいでした。サテライトリーグ(控え選手を中心としたチームで行われていたリーグ戦)ではちゃんとしたプレーができる自信もありましたし、高校時代まで各世代の代表に入ってたんですけど、ジュビロに入ったらすごいメンバーがいっぱいいて、トップの練習に入ると自分だけ劣ってるって感じましたから。

そう思ってる時点でよくないんですけど、でも自分の中で、「ちょっといいプレーができるようになってきた」って自信がついたときでも試合に出られなかったし。もちろん自分の力が足りないということはあったんですけど、やっぱりすぐネガティブになってました。それでもチームの中ではそういう面を出してもプラスにはならないから明るく振舞ったり。それに盛り上げるっていうのも、性格的に求められてた部分だったとは思うので。

2007年は内山篤監督に使ってもらってリーグ戦に26試合出場したんです。でも2008年はハンス・オフト監督になって11試合にしか出場できなくて。2009年はまた柳下監督になって少し出番が増えたんですけど、リーグ戦に半分(17試合)しか出てないし、レギュラーをつかめたとは思ってなかったですね。

自分を信じてくれる人は妻や親やサポーターの方がいて、すごく応援してくれる中でなかなか結果が出ないんで、自分では一生懸命やってるつもりではいたから「これでもまだ足りないのか」とかいろいろ考えて。選手生活を送っていく中で、やっぱり家族には結構ストレスもかけちゃってたと思いますね。

2010年も15試合しか出られなくて、「ヤンツーさん(柳下監督)には使ってもらえない」って、ちょっと環境を変えようと2011年にJ2の湘南ベルマーレに移籍したんですよ。湘南では36試合に出られて、2012年にJ1のアルビレックス新潟に移籍したんです。

ところが新潟は黒崎久志監督が5月に辞任して、6月にヤンツーさんが新監督になりました。それからチームとしてはよくなったと本当に思いますけど、個人的には「また出られなくなっちゃうかな」という思いがありましたね。案の定、その年はリーグ戦に14試合しか出てないですし。

試合に出られなくて腐っていく選手はいましたけど、自分は腐ってもしょうがないと思えてたんです。結婚してなければ悪い方向に行ったかもしれないんですけど、そういうときも支えられてきたと思います。それに妻以外に先輩たちにもいろんなアドバイスをもらってたんで。

新潟の1年目が終わって、オフのときに元ジュビロの先輩の西野泰正さんと飲んだんです。西野さんもジュビロでなかなか試合に出られなかったからいろんなチームに行って、そのときは当時JFLに所属してたカマタマーレ讃岐でプレーしてたと思います。

西野さんにいろいろ話を聞いてもらったとき、「そんなこと言っても新潟はJ1なんだから、そこで戦えるチャンスがあるのに文句言ってたら、すぐJ2とか下のカテゴリーでプレーすることになるぞ」って言われたんです。

「『監督が悪い、監督のせいだ』じゃなくて、まず自分でしっかりやること。監督が何を求めてるかしっかり聞いてやること。『自分のやりたいサッカー』じゃない。やっぱりサッカー選手は試合に出てナンボだ」って。

なんかそのとき、すごくその言葉が響いて。昔から仲よかった先輩だったというのもありましたし、その西野さんが下のカテゴリーに所属してて「やっぱりJ1でプレーできるって幸せなんだから、本当に大事にしたほうがいい」とおっしゃって、自分の態度を変えよう、人に文句を言ってるんじゃなくて自分にやれることをもっとやろうって思いましたね。

それまでは「監督にハマんない」とか「もっと使ってくれればできるのに、使ってくれない」って、要するに監督のせい、人のせいにしてた部分があったと思うんです。でも、もう次の年からは本当にそういう考えを捨てようって考え直しました。

 

■もう少し早く気づけていれば…「終わり」が見えてたどりついた境地

新潟の契約もその翌年までだったから「このままじゃ本当に終わってしまう」と思ったので、監督の言ってることをまずしっかり聞いて、自分にできる最大限の努力をして、言い訳できないぐらいまでしようと思って。そのとき自分は28歳だったんで、そう考えないと本当に選手としての旬も過ぎちゃうと思いましたし。

 

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