泉洋史監督兼選手が語る「バルドラール浦安デフィオ」誕生秘話(2015/8/27)
デフィオの監督兼選手として、ピッチに立ちながら、デフの選手たちを率いる泉洋史。聴覚に障がいのある選手たちとのコミュニケーションのために手話を習得した。
デフフットサル日本代表の強化試合の相手を、バルドラール浦安セグンド中心のチームにデフィオの選手が加わる形で務めた。
その日、デフフットサル日本代表と浦安カテゴリーの対戦が千葉で行われていた。それは、11月にタイで行われるワールドカップに向けたデフ日本代表の強化合宿の一環で、代表選手を選ぶ選考会も兼ねていた。
日程が差し迫る中で対戦相手を探していたデフ日本代表は、Fリーグ・バルドラール浦安のろう者チーム「バルドラール浦安デフィオ(以下デフィオ)」の監督兼選手を努める泉洋史に声をかけ、そこから今回の対戦が実現したのである。
当初、泉監督は、デフ日本代表対デフィオでの対戦を考えた。だが、デフィオから、スタッフを含めると8人をデフ日本代表に送り込んでいる状況だ、デフィオ側の戦力ダウンは否めない。そこで考えついたのがバルドラール浦安セグンドにデフィオの選手を加えたチーム「浦安カテゴリー」だった。
「浦安カテゴリー」は、バルドラール浦安セグンドのメンバーを中心に、デフィオのメンバーが絡むことでこの日のために実現したチーム。写真は、セグンドを率いる新造監督(写真中央)の指示を、手話にて、デフの選手たちに伝える泉監督(同右手前)。
デフフットサルの世界は今や、デフィオというチームの存在をなくして語ることができない。その立ち上げからチームを担い、今の形を作った人物。それが、泉洋史、その人である。泉の奮闘によってデフィオが生まれる経緯を振り返ろう。
まとめ◆デジタルピヴォ! 萩野千絵
“上のカテゴリーには上がれない”
話は、1年前。泉が27歳だったころにさかのぼる。当時、泉は特別支援学校で教職の仕事につきながら、選手として、バルドラール浦安のトップチームであるプリメーロを目指し、その1つ下のカテゴリーにあたるセグンドでプレーをしていた。
日々の生活を守りながら、夢への挑戦に時間を捻出する毎日。「フットサル」というまだまだ一般的ではないスポーツの世界では、トップの選手でさえ、プロとして、「これで飯を食っている」といえる選手は、一握りしか存在しない。
そんなある日、“上のカテゴリーには上がれない”というクラブからの宣告が泉に下された。その理由は、彼の言葉をそのまま借りるならば、「下手くそだったから」。
落ち込んでいる彼に、その先を照らす光が射した。当時、浦安のプリメーロの岡山監督(現ペスカドーラ町田監督)から「アシスタントコーチをやらないか?」と声をかけられたのだ。
Fリーガーとしての道を閉ざされた一方で、「あらゆる人にフットボールの機会を」という自らの理念に沿って、1日も早く、ろう者のフットサルチームをつくって活動をしたいという思いが胸中に膨らんでいた泉。でも、もし、デフのチーム立ち上げが実現するにしても、岡山監督の下で学ぶことは貴重な体験になるのではないか。そう判断し、岡山監督のアシスタントとして、1年学ぶことにした。
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