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サッカー選手を挫折した先で道が開けた…役者・川平慈英はなぜニュースステーションに出演していたのか【サッカー、ときどきごはん】

何歳になっても元気いっぱい
「いいんです」と全てを吹き飛ばす
さまざまな苦労があったはずだが
そんなことは決して感じさせない

サッカー選手としての道を諦めても
道は他のところから開けていった
それでもサッカーとはずっと側にいる
川平慈英にその軌跡とオススメだった店を聞いた

 

■サッカーの歴史的な名場面を伝えられた喜び

昔、加茂周さんとWOWOWでセリエAの番組を一緒にやってたんです。加茂さんが横浜フリューゲルスの監督だったから、だからフリューゲルスを応援しようって。合併されてしまったのは本当に残念でした。

その番組、最初は実況もやったんですけど選手の名前を覚えるのが本当に苦手でしたね。そんな中で「バ・ティ・ス・テューター!」とか叫んでました。当時はまだ「セリエ・エー」と発音していたことも覚えています。でもWOWOWが最初にセリエAをフルマッチで放送しましたからね。それはよかったと思います。

テレビ東京でも「ダイナミックサッカー」という番組に呼んでもらえて、「ニュースステーション」のオファーもいただいたんです。だから両方の局で「ドーハの悲劇」を伝えた現場にいたんですよ。ショックも2倍みたいな。

テレビのおかげでいろいろな名場面を伝えることができました。1994年アメリカワールドカップ、1997年フランスワールドカップ予選「ジョホールバルの歓喜」も。フランスワールドカップでは日本のキャンプ地「エクスレバン」なんかにも行かせてもらいました。

1994年アメリカ大会には兄のジョン・カビラも行ってたんですよ。別々に見てて、夜合流したのを覚えてます。あと忘れられないのは決勝のカードだったブラジルとイタリアの旗を持った人がセスナの羽の上に足をくくりつけて立って飛んできたんです。あれは本当にびっくりでした。「ワーッ」って叫んでました。

1998年フランス大会で覚えているのは街で食事しているときの、海外の人たちの反応ですね。1994年アメリカ大会との違いがすごくあって。アメリカではニコニコしながら「どこから来たんだ?」と聞かれて「日本」と返事をすると、「お、おう」みたいな感じだったんです。熱を交換できない。出場してないのだから当然です。

でもフランスでは「ジャポン」と答えるとみんなから「おめでとう!」とハグまで返ってきて、雰囲気を共有できたんです。これがワールドカップに行けた国と行けなかった国の大きな差なんだって。ジャマイカの人たちも「来週おまえたちと試合だよな! いいゲームやろうぜ!」とファンキーでね。アメリカ大会とフランス大会じゃサッカーに対する幸福感が違いましたね。

初戦のアルゼンチン戦は兄と一緒にチケットで入ったんです。音楽が流れて両チームが入ってきてバティステュータがいてね。号泣ですよ。「あぁ、ついにここまで来たんだ」って。あのときメチャメチャ興奮してたんで、試合前にファンの人から「写真お願いします」と言われたんですけど、「今それどころじゃないから!」と断ってしまってね。

「試合に集中してるから!」「オレたちは新参者なんだから浮かれてる暇はない!」って。あのときの方、すみません。今、謝ります。なんて青かったんだろう。時代がそうだったというのもありますけどね。

1998年フランス大会の予選は世田谷のスポーツバーで兄と一緒に観戦したんですけど、タクシーで迎えに行ったらジョンはマンションの石垣に片足乗せて周りを睨んでるように見渡してて、危ない雰囲気なんですよ。体から闘気が湯気のように立ち上っていて。

タクシーの運転手さんも僕たちに気付いたみたいで「今夜ですよね」と話しかけてくれたもんだから、「そうです。一緒に戦いましょう」と盛り上がったりしてね。店の中でも「集中しろよ」とお互いに声掛けあったりしてましたよ。

そしてやっぱり「ジョホールバルの歓喜」で日本が初めてワールドカップに出場を決めた場面を、ニュースステーションのキャスターとして報道できたときはね、本当にうれしかったですね。選手としては挫折したけど、メディアとしてサッカーに携わった喜びを噛みしめてました。

 

■米国の大学でサッカー選手を挫折した後に転がり込んだチャンス

最初は「読売ユース」でプレーしてたんです。高校2年生のときには全国クラブユース選手権で優勝してます。最終ラインに都並敏史さん、ボランチに戸塚哲也さん、上島康夫さんと僕が2トップでした。

当時まだJリーグがなかったから、高校を卒業するとき、プロにチャレンジするためにアメリカの大学に行ったんですよ。最初はカンザスの小さな大学に行ってプレーしてました。1年生のときはリーグのベストイレブンにも選んでもらいました。

するとテキサス州立大学のブラジル人監督が見に来てくれて、オファーを出してくれたんです。授業料、住居費、食費なんかを全部出してもらって返却の義務がない「スポーツスカラーシップ」で呼んでもらいました。

ところが大学3年生になるときに監督が交代して、ドイツでサッカーを学んできたという監督に代わったんです。その監督はチームのスタイルを2メートルぐらいあるFWにどんどんクロスを入れるというサッカーに変えました。監督は「読売仕込み」でビルドアップを丁寧にして、バックパスもあるという僕のプレースタイルが好みじゃなかったようでしたけれど、僕も天狗になってるから全然自分のスタイルを変えようとは思ってなくて、次第に先発から外れるようになっていきました。

リーグ戦も残り6試合になったとき、監督に話を聞きに行ったんです。「監督は僕の今後の起用法をどう考えているんですか」って。僕としては「普段練習をしっかりやっているのは分かっている。どこかでチャンスが来ると思うからちゃんと続けるように。僕のメソッドとシステムを理解してやってくれればそれでいい」という返事ぐらいかな、と思ってました。

でも監督は「こういうチャンスを与えてくれてありがとう。僕はもう2度と君を使わない」ってはっきり言ってきたんです。さすがにショックで、部屋に帰ってMFだったコロンビア人のルームメイトの胸を借りて泣きましたね。あのとき自分の思い描いていたサッカー人生は音を立てて崩れ去りました。他の大学に推薦状を書いてもらって移るということができたかもしれないけど、もうその心のスタミナが残ってなくて。

でもね、自分はプロになれなかったと思いますよ。プロになった選手はみんな桁違いにうまかったし、自分から見て「すごい」と思ってた選手もプロになれなかったから。だからあれで諦めてよかったと思います。今にして思えば「僕に引導を渡してくれてありがとう、コーチ・パターソン」ですね。

それで「ルーザー」としてやさぐれて日本に帰ってきて、上智大学に入ったんですけど、サッカーは同好会で朝早くやるだけにして、英語を教えるアルバイトをしたりとか居酒屋で働いたりしてました。なんか荒れてましたね。

そのとき大学の英語劇サークルに入ったんです。そこでダンスをやり始めてみると、やっぱりサッカーで鍛えていたからバッキバキに動けるんですよ。

元々ダンスが好きだったし、エンターテインメントや人を喜ばせるのが好きで、高校生のころもダンス集団作って、オリジナル作品を作ってたんです。12月の文化祭の出し物をするために読売ユースの練習も休んだりしてました。読売ユースの監督に「学園祭でパフォーマンスをやるんでしばらく練習休みます」と言ったら許してくれたというのも今考えるとすごいことですね。読売クラブ時代の体育館のフットサルの練習の前にブレイクダンスを踊ってたりもしましたし。

大学3年生のときに、ミュージカル「フェーム」を上演することになったんです。そこで自分がやりたかったいい役をやらせてもらえました。世田谷公会堂でやったんですけど、立ち見が出てスタンディングオベーションももらって。その瞬間、「オレ、役者やる」と決めました。

元々教職を取る予定だったんですよね。親にしたらビックリですよ。親はうちの兄弟に先生になってほしかったんです。でも長男のジョンは芸能の道だし、次男も先生を辞めていて、僕も役者になると言い出したから。

卒論の時期もサンシャイン劇場で「ロミオとジュリエット」に出てたんです。それでもゼミの先生が僕の単位を認めて卒業させてくれました。あのとき認定してもらえなかったらデビューは1年遅れてたでしょうね。

でも役者になるってやっぱりそんなに簡単なことじゃなかったですね。下積み時代が結構ありました。東京都文京区春日の4畳半のアパートに住んで、全部手が届く範囲にある。右手でテレビ、左手で冷蔵庫、右足でラジオ、左足で電気、みたいな生活をしてました。

バックダンサーもやってました。歌手のバックダンサーも経験して、2列目から1列目に這い上がったり、そこでオーディションを受けて役をもらったり。でも振付師の人から「慈英、お前は顔が濃くて悪目立ちしてるから3列目に下がれ」と言われてまた後ろに回ったり。「お前の顔、うるさいよ」って(笑)。

そのころもやっぱりサッカーが好きで、みんなウォーミングアップでバーレッスンとかやってるのに、練習場にボールを持ち込んでリフティングとかしてたんです。舞台で1対1とかやってセット壊しちゃって、監督にボール没収されちゃったりしてました。

ところが「そこまでサッカーが好きなヤツがいる」と演出家の福田陽一郎(故人)さんの耳に入ったらしいんです。当時、福田さんが所属する「オフィス・トゥー・ワン」がテレビ朝日で「ニュースステーション」を担当していて、そのサッカーコーナーで僕を起用したらどうかという話が出たらしいんですね。

それで僕の舞台をプロデューサーが見に来てくれて事務所に連絡があって、衣装を着てカメラテストを受けました。で、後日オッケーが出たんです。

ただ最初は断ったんですよ。事務所に言われてテストに行ったけど、僕は役者であってテレビで何か話すよりも舞台で歌って踊りたいんだって。そうしたら事務所みんなから詰められました。「お前、ふざけるなよ。なんでこんなチャンスを逃すんだ」って。当時、ニュースステーションの視聴率は20パーセントを超えていましたからね。久米宏さん、小宮悦子さんが大人気でしたし。

最後は兄から「キャスターという役を演じればいいんだ。お前は世間に名前を覚えてもらってなんぼじゃないか」と言われて決心したんです。「ニュースステーション」というステージで「サッカーキャスト」という演者としてパフォーマンスを楽しもうって。

それでも初日、「はい、コマーシャルに入りました。次、慈英さんのコーナーの初回になります」って言われたとき、ものすごく緊張しました。マネージャーに「もう辞めたい。オレはもう芸能界辞めて英語の先生になる」と訴えたんですけど、許されるわけもなく。

そんなとき、久米さんが「日生劇場だったら1200人の観客がいるでしょう? スタジオには30人ぐらいしかいないんだから、今日は観客が少ないと思えばいいんだから」と落ち着かせてくれたんです。でも最後にボソッと「でもカメラの向こう側には3、4000万人ぐらいいるんだけどね」と言ってましたね。

久米さんは、野球の知識に比べるとサッカーに関してはそれほど造詣が深くなかったんです。だから僕の言うことをスポンジのように吸収して楽しんでくれて、それがとてもありがたかったですね。たとえばプロ野球だと「勝ち越し」は大きな意味を持ちますけど、サッカーだと優勝しかないし、Aクラス、Bクラスという分け方をしないこともすぐに理解してくれたんです。

視聴率も良かったんで、いろいろ遊ばせてもらいましたね。ゴールのときのボールの軌跡に虹色のエフェクトをかけて「レインボー!」と叫ばせてもらったり。

そうしたらどんどんみなさんサッカー好きになってくれて、小宮さんもロベルト・バッジョの大ファンになったんで、フランスからバッジョの写真集を買ってきてプレゼントしたらとても喜んでくれました。

で、やっぱり「ニュースステーション」の影響は大きかったですね。出演するまでは渋谷の事務所に行くときに道を歩いていても声なんかかけられなかったのに、出た翌日から「あぁ! 出てましたね!」と言ってもらえるようになりましたし。

ただね、「ニュースステーション」とサッカービズに集中していたら、ダンサー仲間、ミュージカル仲間からは「慈英はもうあっちの世界の人。テレビの人になっちゃったね」と言われて。それって「もうお前は役者じゃないよ」ということなのかとグサッときたことがあったんです。

そのころ三谷幸喜さんの舞台「オケピ!」という大ヒット作品に出していただきました。Jリーグの大事な試合があった夜もその舞台の地方公演が入っていて。当然「ニュースステーション」の放送もあったんです。

舞台は夜公演で、「これは舞台が終わって着替えて放送に間に合うかも」ということになったんですよ。
劇場もプロデューサーもオッケーを出してくれて、中継車が劇場の外にやってきて。終演後に「オケピ!」の舞台からサッカーコーナーの中継をしていただきました。僕が舞台でタップダンスを踊っている様子もオンエアしてもらって。

あれは泣きそうになりました。そこで初めて僕が一番大切にしている役者稼業とテレビとサッカーとが全部融合した感じがしたんです。視聴者の方の中には僕がミュージカルをやっていると知らない人がたくさんいたでしょうし。

たくさんの人に「お前、役者姿よかったよ」「『オケピ!』出てたんだ」とか言ってもらえたし、一番は両親に喜んでもらえたし。母親は「あなたはハーフだから目立つようなことをせず質素に生きなさい。目立つ出で立ちなんだから、色物にしか扱われないよ」と心配していたんですけど、これでやっと安心してもらえたと思いました。

ここまで本当にいろいろな出会いがあったおかげで今の僕があって、やっぱり人間一人じゃ生きていけないというのを感じています。両親も僕もクリスチャンで、今でもちゃんと本番前に必ずお祈りしてます。「お客さんと才能をくれた両親に感謝して、ケガなく、事故なく終わりますように」って。なんか海外のサッカーチームの試合前みたいですね。

 

■いくつになってもチャレンジする人にエールを送りたい

最近は体がボロボロです。腰はポンコツだし、膝もガタが来ているし。ごまかしながら動いている感じですね。でも、実はポンコツなところあったほうが、その対応というか付き合う方法を覚えて、より長生きできるようなパフォーマーになると思うんですよ。

 

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