森マガ

日本の学校には馴染めなかった…スペインでサッカー選手になった元不登校児・菅野将馬の過去【サッカー、ときどきごはん】

小さいときに引っ越しを繰り返した
小学校低学年で不登校児になった
人の目が気になって外出できず
引きこもりにもなっていた

隠してきた自分の過去を明らかにして
今苦しんでいる子供たちを救いたい
元Jリーグ・WEリーグ監督の父を持つ
菅野将馬の半生とオススメのレストランを聞いた

 

■転校するたびに途中で馴染めなくなって、学校に行けなくなる

生まれたのは1999年6月17日です。兄弟は3人で兄と姉がいますが、すごく年齢が離れてて兄とは15歳差なので僕は一人っ子みたいな感じでしたね。父の菅野将晃は1995年に京都パープルサンガ(現・京都サンガ)で現役を引退していて指導者の道を歩き始めていたと思います。

父の仕事の関係で引越しが多くて、小学校で転校が3回、4つの小学校に通いました。京都で生まれ、横浜で小学校に入学、平塚、福島を経て最後は東京です。父が京都のコーチの仕事を辞めたときに横浜に引っ越しました。それから父は単身赴任で水戸ホーリーホック、大宮アルディージャ、浦和レッズユースの監督をやっていました。

そこから2007年、湘南ベルマーレの監督のときに平塚に引っ越して、2009年にTEPCOマリーゼの監督になるというので家族で福島に行ってます。そして小学校5年生のときに東日本大震災があって福島から東京に引っ越すことになりました。

いろんな土地に行っていろんな人と話す機会が多かったので、人見知りはなかったですね。父は家でも外と変わらず明るくて、僕たちともちゃんとコミュニケーションとって、遊べるときは遊んでくれました。オフの日は野球を一緒にやったり、サッカーしたり、自転車でどこかに出かけたり、結構いろいろとやってくれてました。

ただ僕は小学校の低学年ぐらいから不登校になったんです。母は幼稚園卒園のとき先生から「もしかしたら不登校になりやすい子かもしれませんよ」と言われてたらしくて、そういう傾向があったのかもしれないですね。実際、小学校に入ったんですけど、なかなかうまくいかなかったですし。

引っ越しが多かったからかもしれないですが、他の子に比べると仲がよくなる相手は少なかったり、友だちの輪に入れないというのもありました。僕は周りとちょっと違った雰囲気があったと思うんです。あとは先生とうまくいかないというのもありました。

日本人のいいところに「周囲との協調性」があると思うんです。けれど反対に「独特な考えは認められない」のもあると思うんですよ。自分が他の人と違うやり方でやろうと思ったら止めろと言われて、「やっぱり自分はこの場所に合わない」と思って学校に行きたくないと考えているところに、先生からもいろいろ注意されたりすると、もっと学校に行けなくなることがあって。

たとえば日本代表戦を見に行ったとき、ユニフォームを作れる折り紙が配られてて、それをたくさんもらって友だちに分けていたんです。そうしたら先生から「そういうことはしちゃいけません」って言われて、僕は結構我が強かったので言い合いになったんですよ。

僕はその先生と結構対立したので親は大変だったと思いますね。それで学校に行けなくなって、学校に行かないと勉強が遅れて成績も落ちるので、さらに行けなくなるというマイナスのサイクルがありました。

最初の転校が小学校2年生のときで、引っ越してから最初の半年は学校に行ってるんですけど、やっぱりその後行けなくなってくるんです。毎回引っ越したすぐは行けるんですけど、どうしても途中で馴染めなくなって、学校に行けなくなるのが4回あったという感じでした。

父が水戸や大宮の監督を務めていたときは自分も小さかったので遊んだぐらいしか覚えてません。記憶としてはベルマーレ時代から残ってます。

ベルマーレの監督のとき、その勝敗で僕もいろいろ言われたこともあったと思います。Jリーグは厳しい世界ですし勝敗もあるんで、今となっては分かるんですけど、小さいころは理解できないから、負けたことについて言われて悲しい気持ちや悔しい気持ちになってました。

僕の第一印象はやっぱり「父親は監督」になりますからね。入っていたサッカーチームでは「監督の息子だからできて当たり前だろう」みたいな言われ方をされてケンカしたこともありました。

不登校になってる時って、昼は外に出るのが難しかったですね。みんなが学校へ行ってる時間帯は家にいて、学校が終わったぐらいの時間になると外に行ってボールを蹴ったりしてました。だけど1日の半分は引きこもりみたいな感じでしたね。

本当は外に出たいのに周りの目が気になってました。母親がスーパーやショッピングモール行くときに誘ってくれるんですけど、行きたくても人の目があるから行けなかったんです。

それでもベルマーレの練習はよく見に行ってたんです。選手が上がったあとグラウンドに入れてもらってボールを蹴ったりしてました。

そのころってもう学校に行けてなくて、ネガティブな気持になってたんですよ。ベルマーレの練習場に行くときも、最初は「みんなが学校行ってる時間にクラブハウスへ行ったら『なんで学校に行ってないの?』と思われてるんじゃないか」と感じてたんです

それでもベルマーレの練習場に行けてたのは、ブラジル人のフィジカルコーチが明るく接してくれたからです。いつも「ボン・ジーア(こんにちは)!」ってポルトガル語ですごい明るく話しかけてきてくれて。そのときに「海外の人ってこんなフレンドリーなんだ」と思いました。

「海外の人は学校に行けてないのを気にせずに話してくれるんだ」と思って、そこで「海外っていいな」という憧れができて、海外志向になってたんじゃないかと思います。そのブラジル人のコーチのことはすごく記憶に残ってますね。

不登校の子供を持つご両親で、「学校に行かせないとまずい」と強制的に行かせたりする人も多いみたいなんですけど、そうすると子供が潰れてしまったり悪い方向に進んでしまったりすることがあるんです。

でも自分の両親は、学校に行けない代わりにいろんな経験をさせようとしてくれました。平塚から江ノ島まで一緒に自転車で行って水族館に寄って帰ってくるみたいな、そういうアクティブで新たな経験を積ませてくれてましたね。

父の知り合いが家に遊びに来たとき大人同士が話してるのを横で聞いていたのも大きな経験でした。普通に学校に行ってたら積めないような経験をさせてもらったからこそ今があるので、そうやって見守ってくれたことにすごく感謝してます。

 

 

■不登校でも続けたサッカーでスペインまでたどり着いた

あるとき、父がベルマーレを辞めるという記事を見てびっくりしました。ちょっと胸に来るものがありましたし、そのあと父が「ベルマーレを辞める」と言ったとき、僕はベルマーレのことが大好きでずっと応援してたのですごいショックだったのを覚えてます。

平塚でも学校には行けたり行けなかったりの繰り返しでいい思い出はないです。先生といろいろやり合って逃走したこともありました。それでも平塚から福島に引っ越すとき、やっぱり悲しかったですね。

ただ、この前父の記事を読んで、福島に引っ越したのは不登校だった自分の環境を変えようと思ってくれていたと知ったんです。その父の気持ちは全然分かってなかったですね。記事を見たときは「まさか」の一言でした。

だから読んですごいうれしかったですし、結果的に福島は今までの人生で一番合ってる地域になりましたし、家族と福島の自然環境と生活を楽しんでたと思います。福島で新たな自分を見つけられたというのもすごい感謝してます。

福島でもしばらくして学校に行けなくなったんですけど、それまでと違って、学校の代わりのフリースクールに通ったんです。そこと自分がすごくマッチしました。すると途中から学校にも行けるようになったんです。

それに学校自体も大人数じゃなかったので、みんなフレンドリーに接してくれましたし、小学校から中学校まで含めて一番楽しい生活を過ごせました。最終的には東日本大震災で離れざるを得なかったですけど、今、一番戻りたいところは福島です。

東日本大震災は小学校5年生の終わりですね。震災の日、午前中はフリースクールに行って、午後、学校に戻って授業を受けてました。フリースクールは福島第1原発から数キロの大熊町にあって、12時過ぎに原発からは離れた場所にある広野町の学校に行ったんです。震災が14時46分でした。

父はシーズン前の合宿で宮崎にいて、福島にいたのは僕と母親の2人で、母はすぐに学校へ迎えにきてくれました。父と連絡が取れなかったので、母が車を運転して兄が住んでいる東京の町田市に行くことにしたんですけど、高速道路の常磐道が使えなかったので、ずっと一般道を走りました。夜中に、通行止めになってたり橋が崩れたりしてる箇所がある道路を行って戻ってみたいなのを繰り返して、何とかたどり着いたという感じでした。

その日は運が良かったと思います。母親がその日の午前中にガソリンを満タンにしてましたし、自分が午後、広野町に戻っていましたしね。もし大熊町にいたら多分母親と会えたのも数日後だったと思います。今は大熊町もだいぶ戻れるようになりましたけど、自分が行ってたフリースクールの場所はまだバリケードがあるので、いつか戻れたらと思ってます。

その後、父が九州から帰ってきて会えたんですけど、いろんな影響が残って大変な生活でした。母は震災関連のニュースで映像が流れると、どうしてもつらそうにしていましたし、自分もやっぱりトラウマになってます。

そのまま町田に引っ越すことになったのですが、それまでで一番大変な引っ越しでしたね。荷物も全部持ってくることはできなかったですから。

6年生のときは町田の小学校に通ったんですけど、やっぱり福島から来たということで放射能のことを言われる差別がありました。その当時はそこまで気にしてなかったですけど、やっぱり馴染むのは結構厳しかったですね。

サッカーボールは福島から持ってこられなかったので兄に買ってもらって、家の目の前にグラウンドがあったので、そこで一緒にボールを蹴ってました。ただ最初はサッカーをするのにためらいがありました。

福島の現地の子どもは放射能の影響で外で遊べる時間に制限がかかっていて、普通にサッカーできるような状態じゃないと知ってたので、どうしても心のどこかで「自分は何も考えずに幸せにボールを蹴ってていいのか」と考えてしまって。

やっぱり笑顔で生活するのはなかなか難しかったですね。それでも次第に笑顔になれたのはサッカーがあったからだと思います。

そのまま町田の中学に進学したんですけど、中学が一番学校に行けなかった時代ですね。それまで学校にずっと行けてなかったから勉強についていけなかったし、周りともそこまでうまくいかなかったし。

大熊町にあるフリースクールに行ってたときに、小学校低学年ぐらいの基礎から丁寧に教えてくれてたんです。「勉強って楽しい」と思い始めてたころに震災が起きてしまって、またゼロから学ぶことになってしまったので、そういう部分も含め、なかなか町田での学校生活はうまくいかなかったですね。

町田にもフリースクールはあったんですけど、ある中学校のクラスルームを借りてやっていて、どうしてもその中学校の生徒が気になるような環境だったので行くのが難しくて、それで通えませんでした。

それに町田は都会というかやっぱり東京なので、学校の子たちの雰囲気も福島と違ってて、そういう意味でも厳しい時期を過ごしました。中学生の間はたまに学校に行けるぐらいで、「福島に戻れたらいいのに」ということばかり思ってました。

ただ、サッカーだけは続けていたんですよ。町田ゼルビアのジュニアユースのセレクションを受けて合格しました。クラブチームなので学校とは関係ないというか、同じ学校の生徒も選手もいなかったので中学の事は気にせずサッカーだけに集中できたのが続けられた大きな要因だったと思います。

 

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