森マガ

【サッカー、ときどきごはん】9クラブを渡り歩いたが後悔しない……安田理大が悔やむたった一つのこと

Jクラブの下部組織で育ち
順調にトップチーム入り
早いうちから実力を評価され
海外移籍まで順調にキャリアを過ごした

だが日本に戻ってからは苦労が続く
それでも前向きにプレーを続ける
若いときからその前進力は常になくならない
安田理大に半生とオススメの店を聞いた

(c)松岡健三郎

 

■いろんな地域に行って楽しんでます

自分のサッカー人生って、正直、苦しいと思ったことなんてないですね。振り返ったら、「あの時そんなによくない時期を過ごしてたかもしれない」っていうのはあるんですけど、基本的にすごいポジティブなんで。

どんだけ悪いことが起きても、どうにかして消化してるというか。サッカー選手だったら試合に出てない時っていうのが苦しい時期だと思うんですけど、別にそんな、「めっちゃ苦しかったか?」って言われたら、そうではないと言うか。それにあんまり大きいケガもしたことないから。

2019年、ジェフユナイテッド市原・千葉に加入したのがゴールデンウイークの4月30日だったんですよ。2018年にアルビレックス新潟との契約が終わったあとの3カ月は、横浜F・マリノスのキャンプに行ったのと、それから後は自分で体を動かしました。ジェフに入るまでプレーするチームなかった時は、周りの人からしたら苦しそうに見えたかもしれんし、苦しかったのかもしれへんけど……。

その時は先が見えない苦しさというのが、もしかしたらあったのかもしれないですけど、自分の中では「どうにかなるやろ!」と考えてたのもあったし。トレーニングができなくて大変ではありましたけど、どこかのチームが練習する機会を与えてくれたらコンディションはすぐ戻るという自信もあったんで。もともとそんなに繊細ではないというか、野生児なんで、すぐコンディション合わせられるから心配はしてなかったですけど。

ただね、チームが決まってなかった間は僕よりも家族のほうが苦しそうで。僕はそういう家族の姿を見るのが苦しいですね。僕は大丈夫ですけど、周りの人が僕のことを思って苦しそうにしてるのが苦しいです。家族とか奥さんのほうの両親とか、普段お世話になってくれてる人たちとかが心配してくれてるのが辛かったですよ。

あとは、人から見るとたくさんチームに行ってることも家族にとって大変じゃないかって言われるんです。Jリーグだけで、ガンバ大阪、ジュビロ磐田、サガン鳥栖、ヴィッセル神戸、名古屋グランパス、新潟、千葉って7チームですから。おかげで引っ越しもうまくなったし(笑)。

いろんな地域に行って、そこの人たちと友達になったり、いろんな場所の道を覚えたりして僕としては楽しんでますけどね。付いてくるほうは大変かもしれないですけど。でも僕の奥さんはそういうのを一緒に楽しんでくれて、何も言わずについてきてくれるタイプなのですごい助かってます。

 

■もう1回這い上がるためにかけた

ガンバの下部組織で育ってそのまま2006年にプロになって、2007年ヤマザキナビスコカップに優勝したときは決勝点を取ったし、2008年北京五輪にも出て、何の問題もなかったんですけど、でも小さいときからずっと海外に行きたかったんですよ。それで2011年にオランダのフィテッセに移籍したんです。

移籍したときはガンバとの契約が切れてたんで、小学校のときから育ててくれたクラブに移籍金を残すことができなかったんですけど、あのときの状況からしたら、移籍金なしでしか行くチャンスがなかったんで、申し訳ないとは思いましたが、海外行きを選んだんです。

フィテッセは最高でしたよ。今でも引退したらオランダに住みたいと思ってますもん。それぐらい大好きです。やっぱり人間がみんな優しくて明るくていいですね。オランダにいるとき、ヨーロッパのいろんな国に行きましたけど、オランダが1番フィーリングが合ったというか。ご飯は終わってますけど(笑)。でもそれ以外の部分に文句は何一つなかったですね。最高でした。

2013年にフィテッセとの契約が終わったときは、他のチームから話もあったし、別の国に行って練習参加もしたりして、だいぶアピールもできて好感触もあったりしたんです。けど、なんかそれ以上「ヨーロッパにいたい」という気持ちを引きずって、プレーする機会がなくなるんやったらどうしようかと思ってたら、ちょうどジュビロから声がかかって。

最初、名波浩監督から電話をもらったんです。名波さんはちっちゃいころからすごく憧れていた選手だったし、好きな人やったんで、話をしていくうちに、もう自分の気持ちも傾いて。電話が来る前もプライベートでご飯連れて行ってもらったりとかすごくお世話になったりしてたんで。

もう1回日本で活躍したら海外に行けるチャンスがあるというのもわかってたし、プレーしないとサッカー選手でいる意味ってないってあのころは考えてたから、試合に出る機会を求めて日本に帰ったという感じです。

磐田に行ったときは、オランダのシーズンが5月に終わってから2カ月半ぐらいは個人で体を動かさなあかん状況で、ヨーロッパでいろんなチームにて練習参加したけど、コンディション的には正直そんなに良くもなかったんです。それから日本に帰ってきたら日本の夏ってすごく暑いし、サッカーの質もちょっと違うし。

だから久しぶりのJリーグに合わせるのは自分の中ではすごく大変で。8月末に加入したんですけど、その時点で出られる試合はもう10試合って限られてて、チームも難しい状況で降格してしまって責任を感じましたけど、磐田に行ったことを後悔はしてないです。

それで2014年に鳥栖に行ったんです。個人としてもう1回這い上がるためには鳥栖の1年にかけなきゃあかんという気持ちがあった時、監督が今の千葉の監督の尹晶煥さんで、厳しくもう1回叩き直してくれたというか。そこで尹さんに会ってタイミングすごいよかったと思いますよ。

ただ鳥栖に行くまで金髪禁止っていうのは知らなくて、すぐ黒く染めたんですけど、まぁそんなんは全然いいんですけどね。千葉ではあの時よりルールとかってそんなにないというか、鳥栖のほうがルールも多かったし練習も全然厳しかったと思いますね。

その鳥栖の時の年齢が25歳で、体も1番バリバリ動く時やし、鳥栖っていうチーム自体が選手全員で戦うというスタイルだったんで、そんなサッカーとか周りの選手にも恵まれましたね。特に左SBの僕の前に韓国代表の金民友がいたのがよかったんです。あいつに生かされてたし、あいつを生かしてたし。今までサッカーやってきた中で1番フィーリングが合ったパートナーでした。民友は今、水原三星でプレーしてて3日前ぐらいもLINEしましたよ。アイツはめっちゃいい奴ですよね。

それで2015年は神戸に行くんですけど、その決断にはすごく悩みました。でも僕の中では鳥栖に行って尹さんに助けてもらったっていう気持ちあったし、その尹さんが突然半年でいなくなってショックだったし。もしあのまま1年間尹さんが監督を続けてたら、その年鳥栖は5位だったんですけど、もっといい順位まで行ったんじゃないかってすごい思ってたし。

それで神戸から話があって移籍したんです。それに一応大阪生まれですけど、小さいときは神戸で育ったし、もう1回関西でプレーしたいという気持ちもあったし。それでだいぶ気合い入れて神戸に行ったんです。オフ期間も普段しないような自主トレとかしまくって。でも、いざシーズンが始まってみたら、やっぱり普段しないことをやったらあかんと思いましたね。やりすぎて体のバランスを崩しちゃいました。1年間ケガが多くてね。張り切りすぎました。

そうしてると2016年に名古屋から声をかけてもらったんです。名古屋もチームのゴタゴタとかもあったし、なかなかうまくいかなくてJ2に落ちちゃって。チームがバラバラになっていくのが見えたというか、それがすごい寂しかったし、自分ももっとできたんじゃないかというのもありましたけど。それで気持ちを切り替えるために韓国に行ったんです。

 

■単年契約にこだわってきた理由

2017年にプレーした釜山アイパークではチームメートに恵まれましたね。みんなすごい優しくしてくれたし、そのときの選手とかは今でも全然連絡取るし。今年、釜山の時のチームメイトで韓国代表だった選手がケガの治療のために日本に来てて、そのときも一緒にご飯食べましたよ。プレーしたときはK2リーグっていう2部リーグでしたけど、チームメートだった選手が今、韓国代表に2人入ってるし、すごいいい経験でした。

それで2018年に日本に戻ってきて、新潟に入ったんです。新潟ではリーグ戦30試合に出て、キャリアハイの6点取ったんですけど、チームの成績が良くなくて、途中で監督代わったりというのがありました。

新潟も今考えてみたら街としてはすごく好きやったし、めっちゃいいとこでした。いろんなとこ行って、いろんなとこ楽しめてるんですけど、新潟も最高でしたね。選手としては強いチームにずっと在籍するのがいいと思うんですけど、人生を振り返ったとき、いろんなチームに行っていろんな経験できたのは、なんかすごい今後の人生の役に立つかなと思います。

そして千葉に来てまた尹さんと会えて、つくづく自分は持ってると思いますね。まず千葉に来たとき、たまたまGMが僕を神戸に引っ張ってくれた高橋悠太さんだったし、去年、江尻篤彦監督でしたけど、江尻さんは北京五輪の時のコーチだったし。そうやって今までやって来た繋がりのある人たちが助けてくれると感じてます。

僕、子供が2人いるんですよ。去年から幼稚園に行きだしたんで、千葉で2年目を迎えて去年と一緒の幼稚園に行けてるから、タイミングよかったです。目標としては幼稚園卒業するまでは同じところに行かせたいですけど、そればっかりはどうなるかわかんないんで。

子供たちは父親がどういう職業がわかってきたんで、いいところ見せたいというのはありますね。今でさえ幼稚園に行ったら「お父さんがサッカー選手」っていうのは息子的に自慢な感じなんで。だからピッチで活躍してる姿をもっと見せたいというのは思いますね。これで今年また尹さんの下でやるってことになって、懸けてますよ、ホントに。もう1回、一花咲かせなアカンなと常に思いながらやってます。

ここまで大きなケガをしたことはないんですけど、いつケガするか分からないんで毎日集中して、自分の体と会話してやっていってます。いつ大きい怪我するかわからないし。調子に乗らずにやるしかないです。

いろんなチームにレンタルで行く人は多いですけど、僕は全部完全移籍なんで。そしてどこも単年度契約なんです。それは昔からのスタンスというか。1年よかったら給料は上がるし、あかんかったら給料が下がるというほうが保険がない気がして、選手として頑張れそうな気がするんで。でも今考えたら複数年契約でよかったという年もあります。もちろん金銭的な部分で(笑)。でもそういう選択してきたのが自分らしいなと思うし、全然後悔はしてないです。

 

■サッカー人生で一番の後悔とは

日本代表に関して言うと、今となっては……それは後悔しますけどね。あの時もっとやったらよかったなっていう。後悔があるとすれば……サッカーやってて1番後悔するのは、日本代表に入ってた時ですね。

 

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