東本貢司のFOOTBALL Dungeon

はじめのはじめに—Begin The Begin

◆「93年初夏・・・・」

93年初夏、かつてない熱気が日本全土を駆け巡ったーーー「Jリーグ」プロスポーツ新時代への期待がこれほど一気に弾け出すとは。

もう誰も疑わない。ブームを超越した魅惑の“ドラマティック・ライヴ・メディア”筋書きのないドラマ、スポーツの持つこの醍醐味を息もつかせぬスピードと華麗なテクニック、激しい攻防の一コマ一コマに堪能させてくれるプロサッカーの魅力が改めてサッカー・ファンを虜にする

開幕直前 いずこからか つぶやきが
「Jリーグは過去の実績なんて関係ない・・・・・活躍したヤツが目立った分だけクロースアップされる・・・・・」

まさにその言葉通りの展開に ファンは酔いしれた。
プロ野球ファンは嫉妬し バスケットボール・ファンは希望をふくらませそしてオールド・サッカーファンはひとしきり青春を取り戻した・・・・

そう、一番の功労者はジーコである。
91年7月、ジーコが来日した頃の鹿島の練習グラウンド脇には、シャワーもついていないプレファブの更衣室があるだけだった。
雨が降ると田んぼのようになる最悪のグラウンド、レフェリーのレベルの低さ、そして何よりも、試合に負けても笑っている選手たち。
ジーコは自分の持っているものをすべて教えなければ、と思った。
技術的な面はもちろん、私生活や食事、体調維持のノウハウに至るまで。
はたして……。

鹿島アントラーズは圧倒的な強さで、Jリーグ初代チャンピオンの栄誉を手にした。
ジーコが作り上げた戦うプロ集団が勝ち進むことで他のチームの選手も炎と燃え、すべての試合が白熱、サポーターズも熱狂の渦に巻き込まれた。
ジーコは感慨深げにこう言った
「Jリーグがイタリアリーグのようになった時、誰がその活性化の歯車の中心になったか、きっと思い出してくれるだろう。ジーコが日本に来た理由はこれだったのだ」
と。

スポーツは人間の五感を激しく揺すぶり。ひとつの感覚系統が受け入れた感動は他の4つに瞬時に伝わり、その相乗効果が大きければ大きいほどより鮮烈に記憶に刻み込まれる。

わたしたちは、忘れない。
歴史の1ページにその足跡を記し始めたばかりのJリーグを彩った数々の勇姿を。
わたしたちの目に焼きついたその輝きを。
さらなる感動と熱気の火薬庫となることを願って。

そして、いつか近い日にジーコの願いが現実となる日を心待ちにして

※正直、ここまでの感動、興奮、はしゃぎっぷりが、当時のこの五体・五感のどこかをほんのひとしきりでも巡りめぐったのだったろうか・・・・う~ん、なにせ、Jリーグ・ファーストシーズンの“締め”に添うべく(ほぼ行き当たりばったりのやっつけ加減でもって)世に出した「写真集」の巻頭イントロ代わりにおよそ数十秒で綴った代物なんでありますからして、そこんところに免じて当時の“空気”くらいは嗅ぎ取ってもらえれば、と。

てなわけで、あれこれと思いが飛び交って、えいやと初っ端にもってきた「はじまりのはじまりでござい」なる口上、いや、そのまた前段・・・・つまりは「ビギン・ザ・ビギン」。

おっと、平成以降生まれの皆さんにはさすがに馴染みが薄いだろうな、その昔、一世を風靡し、とりわけそこそこにお歳をめした女性たちの乙女心につけこんだ「フリオ・イグレシアス」なるスパニアード・シンガーを!

 

◆そこで今度は、“冷めた”ジャーナリスティックに総括するならば・・・・

と、今、記憶の隙間を“サイコダイヴィング”して(もちろん、いささかカビ臭いかつての拙文・断片をサブテキストにして)、けっこう身を捩るような思いもしつつ、“あの頃の感慨の再現”に挑んでみたところ、以下のように相なりました(拝)。

***

ヨーロッパ、南米に比べて実績、技術、戦術の上で歴然とした“差”を感じるアジアのサッカー。その“壁”を乗り越えるヒントは世界が注目するJリーグの潜在能力と未だ途上の“文明開化”にある。

世界のトップスターが結集するヨーロッパやタレントの宝庫南米のサッカー界が、本当の意味でアジアに注目するようになったターニングポーントこそ、我らがJリーグのスタートだった。

それまで、W杯に4度出場するなどアジアンサッカーを名実ともに牽引してきた韓国の存在を一気に押しやってまで、日本のサッカーが一躍「要注意」の存在に踊り出た理由はもちろん、Jリーグ創設に相当数の国際級スター選手(たとえ、彼らの多くが峠を越えていたとしても)が馳せ参じたからだが、実はその“潜在能力”をかなり早くから見通す意見もあった。

その主のひとり、1984年にスイスのアアルストからマツダ(サンフレッチェ広島の前身)にやってきたベルギー人マニュエル・フェレイラは当時を振り返ってこんなことを述べている。

「スタンドは毎試合ガラガラ。けれども練習に限れば(プレーヤーたちは)紛れもなくプロだったし、運動能力はなかなかのものだった。すぐれたテクニックの者もかなりいたし、一番驚いたのはほとんどが右利きなのかどうかわからないくらい両足を使えたことだ」

そのほぼ10年後、待望のプロリーグ発足に伴って名古屋の地にギャリー・リネカーが降り立って、ヨーロッパの“Jリーグ熱”は沸騰した。
「Jリーグはヨーロッパの2部リーグ並みのレベルにある」!

ところが、しばらくして彼らのトーンは急降下する。リネカーは「テクニックは水準以上、タフだしボールコントロールもうまい。しかし戦術的にはまだ子供。試合展開を的確に読んで対処できるプレーヤーが見当たらない。要は経験不足」と切って捨て、「進歩はすべてユースレベルの強化にかかっている」とサッカー文化の不在を指摘したのだ。

根源的な問題がそこにあった。サッカー文化の不在。
前出のフェレイラはこう続ける。
「日本の子供たちはストリートサッカーというものを知らない。南米、ヨーロッパのサッカー文化の土台はストリートサッカーだ。ただし、現在のヨーロッパではその伝統は薄れつつある。オリンピックでナイジェリアが優勝したのは、国に十分なストリートサッカーの“スペース”があるからだ」

スペース。確かに日本は国土が狭い。しかし、それ以上に日本の子供たちは“ブランド崇拝”が過ぎるからではないのか。前グランパス監督ヴェンゲル氏は日本人の最も優れた特質を「規律」だと述べた。

「日本は原則的に階層社会。上からの命令は絶対、批判を素直に聞く。すべて一から“教えてもらいたがる”。そこに自分で考えて工夫を加えることはほとんどない。監督の立場で言えばこんなに働き甲斐のある“職場”はないがね」

リネカーの言葉がそこに追い討ちをかける。
「日本は独自のスタイルを見つけ出せないでいる。南米とヨーロッパの部分的な模倣のつぎはぎから抜け出せていない」

以上の指摘を総合すれば、ヨーロッパ・南米とアジアとの“差”(特に日本を対象として)の本質がある程度見えてくるはずだ。

一言で言い切るなら「日本(アジア)にはまだ十分なサッカー文化がない、そこに至るまでの伝統がない。だから、それを積み上げていくしかない」ということなのだろう。

より具体的に言うなら「子供のレベルでは(できるだけストリートサッカーのスタイルでもって)あまり細かく教え込まされずに、ごく自然に基礎テクニックを磨くよう仕向けること。ごく自然に自由に自分なりの工夫を加える余裕を持つこと」となろうか。

能力はヨーロッパも認めている。あとはやはり時間と経験だ。

 

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