ビジャレアルC Fフットボール・マネージメント部 佐伯夕利子さんが語るスペイン女子サッカー躍進の本当の理由 後篇 建前とはちょっと違うスペイン女子サッカー界の本音
後篇となる今回もプロ化の実態とスペイン女子サッカー発展の理由について、U E F A Pro/スペインサッカー協会公認ナショナル監督ライセンスをお持ちでスペイン1部リーグ ビジャレアルC Fフットボール・マネージメント部に勤務される佐伯夕利子さんにお話をお聞きします。
前篇ではリーガFが発足するまでの企業支援についてお聞きしました。そして、世界中の投資家たちのマインド・メンタリティが変わり、スポーツやアスリートのどのようなところが評価されているのかについても、ご意見をいただきました。
ビジャレアルC Fフットボール・マネージメント部 佐伯夕利子さんが語るスペイン女子サッカー躍進の本当の理由 前篇 日本が突きつけられた欧州の現実
さて、後篇では、日本とスペインの歩んだ道の違いについてお話を進めていきます。ここでご紹介する佐伯さんのお話はリーガF開幕から半年後の現在地でありプロ化の動きが始まった2015年からの振り返りです。今回のお話の中では触れていませんが、このようなことも起きています。「スペイン国内において、女子サッカーの地位向上への士気が高まるにつれ、快く思わない人も少なからずいた。『ビッグクラブのご加護のもとだろう』とか、『男子チームのお布施で成り立っている』とか、『フェミナチ』(フェミニストとナチズムを掛け合わせた蔑称)などと呼ばれることもあった。」(佐伯夕利子オフィシャルブログhttps://ameblo.jp/yuriko-saeki/entry-12765737534.html)さまざまな抵抗があったことも事実です。それでも、スペインの女子サッカー界は、この道を選んだのです。では、日本の女子サッカーは、これからどのように進んでいけば良いのでしょうか。
フットボールから世界の視点は外せない
佐伯—これから先も、物事が日本国内だけ(ドメスティック・サーキット)で片付いていくとは思えないのです。「グローバリゼーション」という言葉がよく使われますが、本当の意味で体感すると日本の置かれた状況に危機感を感じます。次世代が、どのような人生を生きていけるのかは、これからの日本で、とても大事な視点だと思います。
–—先日、佐伯さんのブログ(https://ameblo.jp/yuriko-saeki/entry-12790618650.html)を読んで、文化背景とサッカーにおけるピッチ上での表現の関係を自分なりに考えさせていただきました。これから先の日本の女子サッカーの行く末を考えるときに、日本人のマインドや日本国内の社会環境をいま一度見つめ直して「では、スポーツはどうすれば良いのか?」と考える必要があるのではないでしょうか。
佐伯–ブログでご紹介させて頂いたデータを総括すると、日本には圧倒的な権力格差が存在し、集団主義かつ男性性が強い社会で、未知な出来事を避ける不確実性回避性を持ち、スピード感を持って意志決定がなされにくく、国民の幸福度が低い社会傾向が背景にあります。こうした社会的コンテクスト(背景・文脈)に身を置く私たちが、女性スポーツの発展を推進していくことは容易なことではないと改めて感じるのです。
日本人が世界に標準を合わせるには何が必要なのでしょうか。私は、フットボールの世界に身を置いているからこそ「グローバリゼーション」つまりは世界の基準を無視できないと考えています。今や、フットボールには国境がない状態です。特に、フットボールを欧州(といっても、欧州にはさまざまな人たち、文化がありますが)が主導しているという前提に立つと、スペインが行ったように、我々の「価値基準」を、(フットボールにおいては)欧州(E U)に合わせていかないと、本当に手遅れの状態になってしまうと思うのです。
これは、フットボーラーのパフォーマンスにも少なからず影響していると思います。日本人選手が、続々と海外に出て行きます。海外に出るとパフォーマンスが大きく伸びます。その理由の一つに「見える世界が変わる」という現象があります。人は、非日常に身を置くことで、これまでとは全く異なる景色を見ることができます。これを体験した者と体験していない者では、語りの濃度が変わってきます。まるで異なる言語で話をしているかのようにです。
例えば、男子サッカーで、海外に出て行った選手たちが日本でインタビューを受けるのを見るとたまに彼らから一種のイライラのようなものを感じます。「これは何だろう?」と考えてみたのですが、私も同じフェイズを通ってきたことを思い出しました。なぜかというと海外に出ると「これまで自分が『当然』だと思ってきたこと」が、当然ではないと思い知る瞬間があるからです。人は、そのフェイズを迎えたとき「なぜ、私が大好きな日本は『当然』が違うのだ?」と、一種の怒りのようなものを感じるのかもしれません。「より日本を良くしたい」という思いが、何かを発言したときに「批判」と捉えられる表現となって日本人の耳に届くこともあるでしょう。でも、それらの発言は「日本が遅れている」という指摘でも批判でもなく、違う角度から見えた新しい景色の描写に過ぎないのです。これは海外に出た選手の多くに共通して起きる現象だと思います。ただ、この景色は、日本から外に出たことがない人たちには「全く何の話をしているのか理解できない」「何を求められているのか分からない」というものとなり、海外でプレーする選手たちと日本から外に出たことがない人たちとでは、使う言語が異なるかのようにミス・コミュニケーションを起こし認識の相違が生まれます。彼らは新たな景色を見てしまっているので、どんどん別の世界にいってしまいますから、その差異が広がっていく不安があります。私は、Jリーグの理事をしていたときは、海外でプレーする選手の気持ちも分かる、でも、国内で頑張っている方たちの気持ちも分かるという微妙な思いでした。
岡島喜久子チェア(当時)が批判を浴びた理由は時間軸の差にあるかもしれない
—今のお話を女子サッカーに置き換えると、岡島喜久子さんがチェアのときに打ち出したさまざまな指針が反発を受けたことを思い出します。岡島さんもアメリカで生活されている方なので、その表現に少し誇張されていたところもあったと思うのですが「理念先行」と強く批判を浴びました。もしかすると、今、佐伯さんがお話しされたことと似たようなことが起きていたのではないでしょうか。
佐伯—時や場所が変われば「価値基準」も変わるものです。人は自らの体験や知見を適した場所で発揮できることが理想でしょう。「岡島さんが生きていらっしゃる現実」と日本のそれとは時間軸に差があったのかもしれません。岡島さんは、文化的価値観が先行する国(アメリカ)で生活されている。彼女のあたり前(標準)と、日本人である私たちのそれはまだ若干ずれていたのかもしれません。だから、岡島さんのお話は多くの日本の皆さんに伝わらなかったのだろうと思います。残念ながら、社会の理解、世間に存在する世論は、多数派が正論とされがちです。そういう意味で、岡島さんが登場するタイミングは早すぎたのかもしれないと私は思っています。この先、日本の社会が変容し「岡島さんが生きている現実」に時代が追いついたときに「あのとき岡島さんが仰っていたこと」が日本でもあたり前とされる社会がやってくるのではないか、と私は思っています。
—もしかすると、チェアが髙田春奈さんに変わり、時間軸の考え方を調整されているのかもしれませんね。
女子チームと知的障がい者チームを持たないという選択肢がなくなったスペイン
—スペインにおける人権や女性の社会進出と女子サッカーの関係は、どのようになっているのでしょうか?
佐伯—これには本音と建前があり切り分けて話をする必要があります。綺麗事だけで話をしていても女性スポーツの発展はないと思います。これは私の個人的な解釈による意見となりますが、全てのスペインのプロフェッショナル・クラブが女子チームを持ちたいと思って持ったかというと、そうではありません。多くのクラブは社会の圧に押されて女子チームを作らざるを得なくなりました。コストセンター(会社にとって利益を生まず「コストとなる部門」)になるだろうと分かっていて、最後の最後まで(持たないように)踏ん張ったけれど、社会がそれを許さず、女子チームを持つことになったクラブは実際少なくありません。
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