WE Love 女子サッカーマガジン

ジェフユナイテッドで夢を叶えたスタジアムD J・酒井道代さんのJ E F U N I T E D I S M Y L I F E

酒井道代さんは音楽を紹介する仕事とサッカーに関わる仕事に就く夢を叶えました。bayfm等のラジオ番組、M C、ナレーターとして活躍。蒲田健さんと一緒にジェフユナイテッド市原・千葉のスタジアムD Jを務めています。

筆者は、酒井さんが「サッカーをプレーしたい女性」だったことを今回の取材で初めて知りました。「ずっとお仕事で関わってきたジェフユナイテッド市原・千葉のレディースチームがWEリーグに参入すると聞いたとき、どのようなお気持ちだったのだろう?」という私の興味から始まった取材で、酒井さんの予想外の物語に触れることになりました。酒井さんは、今回のインタビュー取材の本題に入る前に、こう漏らしました。

「夢中で取り組んでいたら、想像すら追い付かないすごい景色を見せていただくようになっていました。」

その物語の始まりは、まだインターネットが普及していない時代に遡ります。序幕の舞台はバブル末期。Jリーグが発足した1993年にスタートしたJリーグメディアプロモーション公認のテレホンサービス・J ‘S  G O A Lからでした。

スタジアムD Jは蒲田健さんと名コンビ 提供:酒井道代さん

テレフォンサービスのリポーターから始まったサッカーの仕事

酒井子どもの頃からサッカーが好きでした。当時女子サッカー部のある高校が少なく、進学した高校で女子サッカー部を作りたいと考えていましたが人数が集まらず、数十人集まっていた男子サッカー部のマネージャーに目を付け、引き込もうと思いましたが自分でプレーしたいという女子はやはりおらず、女子サッカー部を作ることを諦めなければなりませんでした。でもサッカーには携わりたい。では、今、自分の出来る事は何かと考え、選手により近い立ち場で戦術サポートなどもする、独自のマネージャー業務をさせていただいていました。その頃から「将来は、サッカーや音楽に携わる仕事をしたい」と願っていました。

その後、進学するも、交通事故に遭い生死を彷徨いました。一命を取り留めて通常の生活に戻ったころにJリーグが開幕。生きていられたのだから、やりたかったことにチャレンジしたい。どういう形でも良いからサッカーの仕事に潜り込もうと思い、アルバイト募集に飛び込みました。それがJ ‘S  G O A Lのリポーターのお手伝いでした。毎週、水曜日、土曜日に試合が開催されていたので全国を飛び回り、高校時代、サッカー部で経験してきたことを活かしリポーターさんのアシスタント。その後、私自身もリポーターを任されるようになりますが、当時はまだ学生で、プロのサッカー界の知識も薄かったので、取材のたびに全国で活躍する記者さんやカメラマンさんにお話を伺い、サッカーについて学びました。オリジナル10の選手名・スタッフ名など、これほどたくさんの男性の名前を一気に覚えた経験も良き思い出です(笑)。当時のJ ‘S  G O A Lはテレフォンサービスで届ける音声による速報サービスでした。15分ごとの小まめな情報更新。試合の状況を瞬時に判断し、間違えが許されません。たくさんの経験を積ませていただきました。J ‘S  G O A Lでは全国のJリーグ・クラブのレポートをしてきたのですが、こちらも、飛び込んで始めたbayfmでレギュラーのお仕事をいただけるようになったのち、ラジオのスタッフを巻き込み、ジェフ市原(当時)にプレゼンテーションをする形で、1試合丸々ラジオとのコラボで場内放送を担当させて頂くことになりました。そのとき、すでに蒲田健さんは、スタジアムDJをされていました。その試合が、その後のスタジアムでのお仕事のきっかけになりました。

ラジオも、サッカーも、自ら飛び込んでお仕事にしていったのですね。

酒井交通事故から復帰したときに、残された人生で何かをやりたいと思っていました。「生きているから何かできるはず」「やりたいことはできること」という思いでした。思ったら即行動していました。

bayfmのお仕事も「知り合いの知り合いの知り合いのツテ」(笑)で番組の制作会社に飛び込み、タイミングよく収録が行われていた徳永英明さんの番組スタッフに、「ちょうどアシスタントを探しているところだから喋ってみて」とスタジオへ。そこでサッカーと音楽のお話をさせていただいたのですが、なんと徳永さんは大のサッカーが好き!「では、来週から」ということになり、私のbayfmでの最初のお仕事は徳永英明さんの番組アシスタントから始まりました。

2003年からスタジアムD Jの仕事に

スタジアムD Jのお仕事はいつからですか?

酒井2003年からです。オシム監督就任の年です。事前に監督の言葉を聞きに取材に行くと、逆に私への質問から話が始まるので、生半可な気持ちで向き合うことができず、毎回、覚悟をもって(笑)練習場に通っていました。「サッカーおとどけ隊」というアカデミーコーチが市原市・千葉市の小学校・幼稚園・保育所に訪問して子供たちとボールを使った運動をする活動がありますが、その「サッカーおとどけ隊」にも同行させていただきジェフのサッカーを学んだり……オシムさんの教えは、下部組織にまで伝承されていたのを覚えています。

当初はピッチレベルで行なっていたスタジアムD J 提供:酒井道代さん

オシムさんの隣で緊張した面持ち 提供:酒井道代さん

それまで、外のメディアの取材者として関わってこられたわけですが、スタジアムD Jという仕事になったことで、そこまでやらなければならなくなった理由はどこにあったのでしょうか?

酒井スタジアムDJは「クラブの中のスタッフ」ともまた違った立場です。そして、より、サポーターに近い立ち位置です。なんとか中のことを知りたいと思う気持ちだったのかな。メインのスタジアムD Jの蒲田健さんに、何か必要なタイミングで、小さなネタをそっと差し出せるような寄り添い方を意識していました。

蒲田健さんと一緒にピッチサイドで 提供:酒井道代さん

レディースチームの選手には自信を持ってプレーしてほしい

ジェフユナイテッド市原・千葉の歩みをどのように感じますか?

酒井舞浜に練習場があった頃にJ ‘S  G O A Lの取材スタッフとして通い始め、姉崎にも足を運び……あの頃を思い返すと「プロであることを精一杯楽しむ選手たち」がいましたね。サポーターさんとの距離も近く、選手から取材者へのアプローチも       積極的で、携わる全ての方でチームを作り上げていく意識が強かったように感じます。その後、千葉市へのホームタウン広域化、フクダ電子アリーナの存在、ユナイテッドパーク、蘇我スポーツ公園と一つずつ大きく積み重なり、ホームタウンと共に歩むクラブとして、絶対的な存在になっていると実感します。

ジェフユナイテッド市原・千葉レディースに目を移すと、選手がクラブに月謝を払ってプレーをしている時代がありました。大きく変わりましたね。ここ数年レディースの新体制発表の司会も担当させていただいていますが、以前はトップチームの新体制発表会、ファン感謝デー『サポーターズフェスタ』、スポンサーパーティにレディースチームが参加し、レディースチームの選手は壇上での紹介が終わると練習場、練習時間の関係で途中退席して練習に向かうのが常でした。そのもどかしさがありましたね。

以前の練習場では、トレーニング後に自分たちでお米を炊いて食事の準備もされていました。私自身、なんとか選手たちを応援したいと、ラジオの取材先で農家の方から頂いたものなどを練習場に届けに行くこともありました。ゼネラルマネージャー(取材時・現在は監督)の三上尚子さんや、コーチの清水由香さんがプレーヤーだった時代です。

長い間、ジェフユナイテッド市原・千葉レディースを見てこられた酒井さんは、チームのWEリーグ入りを聞いたとき、どのようなお気持ちでしたか?

酒井–WEリーグがスタートし、オリジナル11に選ばれたタイミングでプレーする今の選手は幸運です。

そして、今しかないこのスタート時にプレーすることが、どれほどすごいことか、それを自信にしてほしいと思いました。

プレーだけではなく、発する言葉の準備もしっかりとしてアピールできる選手になってほしい、取材をしてくれる方が「もう一度、この人の話を聞きたい」と思ってもらえる選手になってほしいと思います。新加入会見に臨む選手は希望に満ち溢れ「幼い頃から夢見ていた場に立てる感動」でキラキラしています。とても素敵です。ここから、とことん楽しんでほしいと思います。

新体制発表会の司会も行う 提供:酒井道代さん

ジェフユナイテッド市原・千葉レディースはプロリーグ2シーズン目ですが、プロとして先輩に当たるトップチームから引き継いでいると感じるものはありますか?円陣ダッシュは共通ですね。

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