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女性初 日本サッカー殿堂入り綾部美知枝さん グラスルーツ視点で振り返る日本サッカーの歩み 後篇 先生ネットワークでサッカーは全国に広がった

2022年9月10日、日本サッカー協会は第18回日本サッカー殿堂・掲額式典を開催しました。今回、綾部美知枝さんが、女性として初めての殿堂入りを果たしました。綾部さんは女性指導者の草分けでグラスルーツ(草の根普及活動)に尽力され、のちに、日本サッカー協会理事、静岡市生活文化局文化スポーツ部参与兼サッカーのまち推進室長を歴任された方です。 

綾部さんが監督として清水FCを率いて第1回全日本少年サッカー大会を優勝した1977年に選手だったのが長谷川健太さん、大榎克己さん、堀池巧さんらでした。彼らの年代から少年(4種)サッカー選手は全国的に急増していきます。日本サッカー協会が発表した年度別登録数によると1979年は3千150人でしたが、1983年には4千407人、1986年には6千835人(2021年は8千257人)にまで膨れます。あれから16年後の1993年にJリーグが開幕。綾部さんの教え子たちは日本代表の主力選手となります。そして、1998年にFIFAワールドカップ フランス1998に初出場し、日本サッカーは上昇気流を上っていきます。 

女性初 日本サッカー殿堂入り綾部美知枝さん グラスルーツ視点で振り返る日本サッカーの歩み 前篇 「サッカー王国・清水」の真の姿

後篇は「サッカー王国・清水」とは何か?の続きから始まります。なぜ、先駆者だった清水の少年サッカーは全国に伝わっていったのでしょうか。そして、綾部さんは、WEリーグと今の女子サッカーをどのように見つめているのでしょうか。 

第18回日本サッカー殿堂・掲額式典

綾部– 清水市内各地での取り組みが広がっていきました。例えば、お父さんたちが工夫して設置した照明をきっかけに、清水市(現・静岡市清水区)の全ての小学校の校庭には、あっという間に夜間照明設備が設置されました。すると、子どもたちの練習が終わってから、お父さんやお母さんが練習をできるようになりました。学校施設が、本当の意味での公共施設になっていきました。 

当時の日本は高度成長期で、お父さんたちは、子育てをお母さん任せにして、あまり学校に顔を出すことがありませんでした。でも、清水ではサッカーを通して、お父さんたちも積極的に学校に出てきてくださるようになって、子どもたちが張り切りました。そんな状況に恵まれて、子どもたちは、より良いサッカーをしてくれるようになりました。 

そして、江尻小学校など市内の子どもたちから選手を選抜したオール清水が清水FCに、さらに清水エスパルスとなって今日に続いています。こうした歩みを含めて、皆さんから「サッカー王国・清水」と言っていただいていると思います。 

—サッカーを通じて、地域の環境が良くなり人の関わりが密になっていったのでね。 

綾部– しかも、それを各小学校でやったということが重要ですね。堀田先生(堀田哲爾さん:「清水サッカーの生みの親」といわれ、のちに清水エスパルス設立に尽力)が各学校でサッカーの指導をするために号令をかけてくださいました。堀田先生がクラマーさんのコーチングスクールに参加され、その経験を活かして静岡県で1年間をかけてコーチングスクールをやってくださいました。そこでノウハウを学んだ指導者が、それぞれの小学校に戻って指導しました。指導者を育てることで、あっという間に「清水の地図にサッカーの色が塗られていった」のです。 

IAI スタジアム日本平付近から見た富士山

—私は1970年代に愛媛県松山市で少年サッカーをやっていましたが、今でも良い経験をさせていただいたと思っていることがあります。小学生にして、年間を通して小学校各校のチームが総当たりで対戦するリーグ戦とカップ戦の二本立ての年間スケジュールを経験したのです。こうした試合方法は、おそらく清水から伝わったのではないかと思いますが、いかがですか? 

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