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「やめるなよ」と「サッカーどうするの?」 東日本大震災から10年 山根恵里奈さんが見つけた正解(後篇)

2006年にJFAアカデミー福島1期生として故郷・広島の親元を離れ、単身、福島へやってきた山根恵里奈さんは、J ヴィレッジと寮を中心にした生活をおくることになります。町の皆さんとアカデミー生には活発な交流があり楽しい毎日でした。しかし、皆さん、今となってはご存知の通り、そのとき既に静かに、2011年3月11日まで5年間のカウントダウンが始まっていたのです。

 日本の女子サッカーが世界一に向けて上り調子になった頃

なでしこオールスター2008の前座試合に山根恵里奈さんが出場されていました。JFAアカデミー福島と日本代表OBOGの対戦でした。金田喜稔さんとラモス瑠偉さんが大人げないプレーを連発して、満員のスタンドから大ブーイングを受けていた試合です。筆者は、多数のシュートの洗礼を受ける、あの試合の山根恵里奈さんを筆者はよく覚えています。

 

JFAアカデミー福島3−6日本代表OBOG

20分 松山 吉之(元ガンバ大阪)

26分 松山 吉之(元ガンバ大阪)

27分 望月 聡(元浦和レッズ)

55分 小島 ひかる(JFAアカデミー福島)

59分 高木 琢也(元サンフレッチェ広島)

65分 吉田 弘(元古河電工)

71分 石原 愛海(JFAアカデミー福島)

74分 根津 晴菜(JFAアカデミー福島)

76分 金田 喜稔(元日産自動車)

※小島 ひかる(現・大宮アルディージャVENTUS) ※石原 愛海、根津 晴菜(引退)

 

2008年8月31日、国立西が丘サッカー場は超満員。それもそのはず、この試合は、北京オリンピックで日本女子代表が4位に入賞した直後に開催されたのでした。スタジアムは幸せな雰囲気で満たされていました。2011年の世界一に向かって、女子サッカー界が急ピッチで坂を登りはじめた頃でした。

金田喜稔さん、ラモス瑠偉さんをはじめ日本代表OBOGの選手は、身体作りがまだ不十分なJFAアカデミー福島の選手たちをフィジカルコンタクトで、ドリブルで圧倒し続けました。現役時代にアジアの大砲と呼ばれた高木琢也さんは強烈なヘディングシュートを放ちました。そんな手抜きのないプレーを見て、試合の途中からスタンドは一体となって日本代表OBOGチームにブーイングし、JFAアカデミー福島の反撃に大歓声と大拍手が巻き起こりました。

金田喜稔さんに言われた「やめるなよ」

山根私、試合が終わって日本代表OBOGチームに「ありがとうございました」と言いにいったときに、金田さんに「絶対にやめるなよ、お前」と言われました。ラモスさんにも声をかけていただきました。

あのときは6失点しましたね。

山根そうです! いっぱい点、とられましたぁ!(笑)だって、ラモスさんは(ピッチ内で試合中に)リフティングしていたじゃないですか! 1人の選手が、試合中にラモスさんの前まで行って抗議していました。

山根さんは、まだJFAアカデミー福島の所属でしたが「大きなGKがいる」と全国のサッカーファンが噂する存在でした。前座とはいえ、ピッチに立った山根さんの姿が披露されて、多くのサッカーファン、関係者から注目が集まった試合でした。その「やめるなよ」は金田さんの優しさだったのでしょうね。

2009年に東京電力女子サッカー部マリーゼに加入

東京電力女子サッカー部マリーゼは2005年2月1日にJ ヴィレッジに誕生しました。J ヴィレッジの敷地は広大でグラウンドも多数ありますが、JFAアカデミー福島とは、同じ敷地内のグラウンドで練習していた近い関係です。日本の女子サッカー史を振り返ってみても、いまだに東京電力女子サッカー部マリーゼを超える環境を選手に提供していたチームはないでしょう。多くの学生プレーヤーが東京電力女子サッカー部マリーゼでのプレーに憧れました。

J ヴィレッジスタジアム(2007年) 

山根実はマリーゼには、高校2年生くらいのときから週の半分は練習参加してお世話になっていました。当時のマリーゼは選手全員が東京電力の社員として働きながらプレーしていました。だから、引退してからの仕事の選択としてもマリーゼ入りには魅力がありました。私が入った年に宮本ともみさん(現・高田短期大学サッカー部の監督)が伊賀FCくノ一から移籍してこられました。先日、お会いしたときに、みっちさん(宮本ともみさん)と「同期なんだよね、うちら」という話をしました(笑)。

みっちさんが加入して、前年度までとは、かなり雰囲気が変わりましたね。自分も、練習参加から所属選手に立場が変わったし、社会人になったので「しっかりしなきゃ」と思っていたはずなのですが、当時の私は「とんでもない選手」だったと思います。口だけが立派で中身のない奴でした。年代別の日本女子代表に入って調子に乗っていました。そもそもアカデミーのときから天狗になって、自分の能力、立ち位置を分かっていなかったと思います。

 

「天狗になっていた」という山根恵里奈さんの発言を、筆者は念の為、当時を知る複数の方にお聞きしました。いずれも「天狗になっていたとは思わないけれど、身体の大きさからか『自分はもっとできる』と思い込んでいて謙虚さが少し欠けていたかもしれない」というお話をしてくださりました。

ジムのテレビで知った東日本大震災

山根恵里奈さんがマリーゼに加入してから3年目の春、シーズン開幕前、2011年3月11日に東日本大震災が発生します。山根恵里奈さんをはじめ、マリーゼの選手、スタッフは、そのときJヴィレッジにはおらず、宮崎県でシーズン開幕直前の合宿をしていました。当時のことを、ゆっくりと思い起こしながら振り返っていただきました。

2019年に訪問した宮城県石巻市 提供:山根恵里奈さん

山根午後の練習が始まる前に「地震があったらしいよ」という話を聞きましたが、選手は、みんなグラウンドに移動していきました。私は怪我をしていて、手術をしてから日が浅かったので別メニューでリハビリをしていました。一人でホテルの中にあるジムに行ってトレーニングする予定でした。ジムに設置されているテレビは全て地震のことを放送していて「えっ?」と思っていたら津波の映像が流れてきて……。

グラウンドに行ったはずのトレーナーさんがジムに勢いよく帰ってきて「宮崎県にも津波の注意報が出たから帰ってきた。恵里奈も今日は中止して、みんなのいるところへ行こう。」と言われました。みんなもホテルに帰ってきていました。(ここが宮崎県でも)全員が2階よりも上にいることになりました。福島の人に連絡をしても反応がなく、東京でも大きな被害があると聞いて……何がどうなっているのか解らないまま、ただ漠然と「大変なんだ」と思っていました。理解が追いついていませんでした。

「自分だけ逃げているのかな?」と思い悩み続けた日々

すぐに福島に戻ることができないと気がついたのはいつですか?

山根翌日に、心配した人から何件か電話がかかってきました。それで「私も被災したんだ」と気がつきました。そんなとき……多分、ジムでトレーニングをしているときだと思うのですが原発が水素爆発した映像を見て「もう帰れない」……というよりも「サッカーやめなきゃ」と思いました。

電話で連絡がとれた福島の人は「着の身着のまま逃げてきて、ここからどこへ行くのかも分からない」と言っていました。これでは、きっとサッカーはできないし「早く帰ってみんなのために手伝わなきゃ」と思ったけれど、自分はどうしたら良いのか分からない気持ちでした。

このあたりの記憶の時系列はめちゃくちゃで、思い出そうとしても思い出せないこともあります。ただ、はっきりと覚えているのは「サッカーやめなきゃ」と思ったことだけです。

なぜ「移籍しなければならない」ではなく「やめなきゃ」だったのですか?

山根サッカーなんて「やっちゃダメだ」と思いました。これだけお世話になった人に迷惑をかけていて、ここにいるからお手伝いもできないのに……サッカーなんて言っている場合じゃない、サッカーは自分が好きでやっていることだし……そう思いました。

原発事故がなければ、自分の家に戻って暮らすことができた人がたくさんいるはず……。私は、あのとき、福島に帰れなかった、その後も帰らなかった……私はサッカーをするために違う場所に行かなければならなくなり、今も、福島に住んでいない。だから「自分だけ逃げているのかな?」と思うときがありました。

「自分だけ逃げているのかな?」と思うことに対する答えはあるのでしょうか?

山根はっきりとした答えは出ないですが……なんと言えば良いですかね……せめて、何かをやり続けなければと今も思っていて、年に一回は福島に行くことにしてきました。マリーゼが活動休止になって、私は2011年シーズンの選手登録がありません。「サッカーやめなきゃ」と思ったままプレーせずに東京電力に残って東京の事業所へ異動になって働いていました。

私は「福島でのボランティア活動希望」を申し出ていました。2011年の9月くらいにボランティアの割り振りで、偶然に私が福島県会津美里町に行くことになりました。アカデミーがあった楢葉町の役場の機能が会津美里町に移転していました。住民も福島県会津美里町に集団移転していました。私が担当したボランティアは、支援物資の仕分けをして仮設住宅に届けることでした。

その仮設住宅に、民宿 羽黒荘のご家族がいらっしゃることがわかり訪問しました。JFAアカデミー福島の一年目は、まだ寮が完成していなくて、Jヴィレッジに近い民宿 羽黒荘を寮として使用させていただいたのです。私は仮設住宅を訪問するとき「サッカーやめなきゃ」と思ったままだったけれど「元気です」ということだけは民宿 羽黒荘のご家族に伝えようと思っていました。

ドアをノックしたら民宿 羽黒荘のお母さんとお姉さんがいらして「よかった、どこへ行っていたの?」と言われました。その次に「サッカーどうするの?」と言われたので、私は答えられなくて……。そして「頑張って」と言われました。

それから4年、FIFA女子ワールドカップ2015カナダ大会のスイス女子代表戦に出場した翌日に、民宿 羽黒荘のご家族からメールが届きました。そのときのことをお姉さんが覚えていてくださいました。あのとき、私がサッカーをやめようと思っていたから「サッカーどうするの?」に対して何も言えないのかな?と思ったのだと。それでもとにかく応援したいから「頑張って」という声をかけてくださったのだそうです。

「頑張っている姿を見ることができて嬉しかったしサッカーを続けてくれてありがとう。サッカーを続けてくれることが私たちの励みになるから、これからも応援するし頑張ってね」というメールでした。お民宿 羽黒荘の姉さんは、あのとき、私が答えられなかった理由を知っていたのです。

「サッカーやめなきゃ」から「サッカーやらなきゃ」へ

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