「オレは終わりなんだ」と涙が止まらなかった…小林悠が川崎フロンターレで感じていた葛藤とは【サッカー、ときどきごはん】
どんなときも態度は変わらない
悔しいときも決して人には当たらない
闘志を剥き出しにするときですら優しさが前面に出る
多くのことを成し遂げたのに傲慢さはカケラもないだが決して苦労していないわけではない
むしろいろいろな苦労を乗り越えてきた
そんな話すらも朗らかに語ってくれる
小林悠に半生とオススメのレストランを聞いた
■今も忘れられないフロンターレ初優勝の光景
僕の人生、これまでで一番きつかったのは、やっぱり大学4年生のときに右ヒザをケガしたことですかね。最初に左足の中足骨を骨折したんです。3カ月ぐらいかかって復帰したのに、その試合で今度は右ヒザ前十字靱帯を断裂しちゃったんですよ。
大学3年の2月に川崎フロンターレの宮崎キャンプに参加させてもらって、そのあと麻生グラウンドでの練習試合にも出ました。その練習試合では、もうフロンターレ入りが決まってた同期の楠神順平も出てたんですよ。その練習試合でゴールも決めたし、自分でも手応えを感じることができたし、それに「ここでやっていきたい」という気持ちにもなりました。内定をもらえて本当にうれしかったですね。
進路が決まったから、大学4年になったときはユニバーシアードに日本代表として出ることが目標でした。でも大会直前の海外遠征のときに中足骨が折れて、そこで大学での夢が終わってショックがめちゃくちゃ大きくて。それで復帰した試合で前十字でしたからね。「またか」「こんなに続くんだ」って。
結局4年生のときはほぼプレーできませんでした。精神的に一番つらかったのはあのときですね。「大学3年のときにフロンターレに入ることを決めておいて本当によかった」とも思ってました。4年生のときはずっとケガだったんで、もしあのとき進路を決めていなかったら、プロ選手になっていない可能性もあったと思います。
2010年にフロンターレに入ったあとも半年ぐらいリハビリでした。やっと試合に出たのが9月5日の天皇杯2回戦、鹿屋体育大学戦でした。そのとき2点取ることが出来たんです。けれど、あのころのチームには黒津勝さん、矢島卓郎さん、鄭大世さん、ジュニーニョ、レナチーニョ、ヴィトール・ジュニオールがいるんですよ。やたら個性的な人たちが多くて、今思うと「よくあの中に入っていけた」と思いますね。だから1年目はリーグ戦で6試合、途中からちょっとだけ出してもらうという感じでした。
2年目の2011年は、なんか、多分すごく運があったんでしょうね。こぼれ球が自分のところに来たり、味方がシュートを打つからスペースを空けようとしてバックステップを踏んだらその足にボールが飛んできたり。1年目からは考えられない感じで点が取れて、結局12点取ることが出来ました。
それから2年目になるときに、移籍していったヴィトール・ジュニオールの背番号「11」をもらったんです。当時の庄子春男強化本部長から提案していただいたとき、「全然活躍してないのに、こんないい番号をもらっていいのか」と思ったのを覚えてます。それでも「期待しているから」と言われて「着させてください」って言いました。
「11」番って、やっぱりカズ(三浦知良)さんや佐藤寿人さんのイメージがあって、「かっこいい」と思ってたんで、付けられるのなら付けたいと思ってました。それからずっと同じ番号を付けさせてもらってます。
フロンターレってずっといいFWが入ってくるんですよ。外国籍選手だけ考えてもレナト、パトリック、レアンドロ・ダミアン、今もエリソンがいますし、2013年には大久保嘉人さんも来ましたからね。いつもいい攻撃陣が揃うんです。
そんな中だったんで、自分は自分の良さで勝負しようと思ってます。自分の特長を考えたときに、やっぱり「動き出し」と「器用になんでもこなせるところ」じゃないかと考えました。それで周りを見たらそういうタイプはいなかったので、「やっぱり動き出しで勝負していくしかない」って。
そのためにはパスの出し手とのコミュニケーションが必要になってくるので、自分のよさを出すために練習のときから中盤の選手と話すようにしましたし、今もそうしてるんです。
それから「器用になんでもこなせるところ」は、たとえばトップとして点を取ったのにポジションを右に移せという指示が来たら、それはちゃんと従うところとかですね。そりゃ確かに「なぜ自分が」と思ってましたよ。いや、思ってますよ。
でも、ピッチに立っている以上はポジションがどこでもゴールを決められる可能性は絶対あるんで、そこをどう探るかだと思いながらやってます。文句や不満を言ってピッチから外れるとノーチャンスだから。
ピッチに残っているあいだは、どこにいても結局自分が点を取ることを考えてやってます。だから真ん中から右に移っても、左からのクロスに飛び込んでヘディングを決めるとか、そういうのを狙ってます。最後に真ん中にいればいいやって。
もちろん右でゲームを作るときは顔を出してますけど。ただ、それでも左に展開するための関わり方も探ってて。たとえば、最後に自分が点を取るためには、今ここでボールを中盤に落とそうとか、ゴールから逆算してプレーしています。中盤にボールを預ければ中村憲剛さんや大島僚太がサイドチェンジしてくれるだろうから、そこからクロスが上がるときに真ん中に入っていけますからね。
人からはあまり不満を口に出してないように見えてるみたいですけど、ホントはそんなことないんですよ(笑)。家の中とかでは結構不満言ってましたね。右サイドで使われるようになってたときはやっぱり言ってました。でも妻から「ユウくんなら大丈夫だよ」と言ってもらって、「じゃあ頑張ろう」って思い直して。うまく転がしてくれましたね。
そうしたら嘉人さんが2017年には移籍していって、「もう自分が点を取らなきゃダメだ」というのがハッキリしたんです。その前はやっぱり「嘉人さんもいるし自分もいる」という、どっちも点を取れるという感じだったと思うんですけど、自分しかいなくなって。そのぶん、みんなが僕を見てくれるようになったので、「プレッシャーや期待に自分が応えられるか」という戦いになりました。
キャプテンにもなって、シーズンの最初は10試合を終わって4勝4分2敗と結構苦戦しました。けれど、途中からチームが上手く行くようになって自分も点を取って勝つようになって。最後はいろいろ上手くいきすぎましたけど、初優勝に得点王、MVPを取らせてもらいました。あれは本当に取らせてもらったというのがぴったりのシーズンで、実際自分の成績のことはあまり考えてなかったし、本当に「得点王にはなれなくてもチームが優勝できればそれでいい」と思ってたんです。
フロンターレはずっと優勝できなくて、最後に引っ繰り返されてという経験をしていたので、あのときは得点王やMVPよりも、優勝できたことですべて報われた気がしました。ずっと応援してくれてたサポーターの人たちがたくさん泣いているのが見えて、今思いだしてもちょっと涙が出るくらい感動しました。あれはずっと忘れられないと思います。
憲剛さんともね、厳しく言い合って。でも全然気になんないですよ。憲剛さんとはそういう仲だし。僕も憲剛さんには激しく言ってましたし。それは信頼関係があったから。言い方なんかで悪くなる仲じゃもうなかったんで。お互い正直に勝ちたいからというスタンスでしたね。それは多分、チーム全員わかってたことだし。
谷口彰悟と僚太、GKにはチョン・ソンリョンもいましたし、みんな勝つためにどう戦うかっていうのを考えてやってくたんで、厳しい言葉が飛び交ってましたけど、みんな勝ちたいからでした。たぶん僕がいろんな選手にいろいろ厳しく言ってたのは憲剛さんがフォローしてくれてたと思います。
■本当に残念だったアギーレ監督の辞任
2014年からは日本代表にも呼んでもらいました。
日本代表で初めて出た2014年10月10日のジャマイカ戦で、パスミスしたら10分ぐらいパスが出てこなくて、柿谷曜一朗がむりやりなパスを出してくれたってことがあった、とこの前教えてもらいました。僕は覚えてないんですけどね。曜一朗いいヤツですよ。そのときの僕のコメントが「代表はそういう場所だと思っています」というのだったというのも教えてもらったんですけど、それも覚えてないですね(笑)。
ただ、あのときのハビエル・アギーレ監督がとてもいい指導者だったのは覚えてます。2015年のオーストラリアアジアカップには連れて行ってもらったけど1回も出番がなかったんですよ。それでもアギーレ監督はよかったと思うくらいです。
ミーティングには熱があったし、練習も本当に楽しかったですね。トレーニングメニューが短い時間で変わっていって、パンパンパンと変化していって、でもインテンシティは高いっていう、すごくいい練習だったと思っていたのを覚えてます。
だから、その八百長疑惑で辞めていったのは本当に残念でした。その話が出たとき、アギーレ監督がみんなの前で「私はサッカー人生すべてをかけて八百長なんてやってない」と言ったんです。だけど「代表監督を辞めなければいけない」って続けて。そのとき「絶対この人はやってない」と思いましたね。人間としても本当に好きな人だったんで、とても残念でした。
それで2018年ロシアワールドカップが来たんですけど……あれは確かに……結構悔しかったですね。発表の直前にケガしてしまったので。
発表直前の試合のあとにちょっとふくらはぎに違和感があったんです。それでオフ明けの練習で肉離れしてしまって。バックステップした瞬間にプチって感じがしたんですよ。今もその日、その週、練習を止めておけばよかったとか、いろいろ考えることもあります。「この違和感は大丈夫なやつかな」と思ってしまって、自分でもちょっとよくわかってなくて。
ケガが続くようになると脳が気にしすぎるんじゃないかと思うんです。脳が「ケガしそうだ」と思ってて、それで実際ケガになっちゃうみたいな。体にはすごく気を遣ってて、食事や睡眠、体のケアもすべてつぎ込んできてるんですけど、それでも、なんて言うんですかね、走り出すときなんかに怖さがずっとあるんです。ケガしたときの感覚が脳にあるからなんですけど。それをある程度気にしなくなったらケガが減りましたし。だからやっぱり脳って大事なんだなって。脳で体動いてるんだというのをすごく感じましたね、
ケガしてなくてもワールドカップのメンバーに選ばれてたかどうかわからないですけど。ワールドカップは確かに行ってみたかったですね。でも行ってたら燃え尽きて、もしかしたら早く引退してたかもしれないですけどね。
■ベテランの辛さを乗り越えた日
あとは……ベテランになってくるって辛いですね。
※この続きは「森マガ」へ登録すると読むことができます。続きはコチラ