スターを創出できる世の中にしたい…元Jリーガー・谷川烈がヤスダグループで取り組む仕事とは?【サッカー、ときどきごはん】
高校時代にはJ1チームでベンチ入り
プロ2年目には劇的なゴールを挙げてもみくちゃにもなった
そのときから24年が経過した今年
その人物は試合前に挨拶をする立場になっていた現役を終えてから大学に進学し
いったんは大手企業に就職するもベンチャー企業へ転身
常に道を切り開き続けてきた
ヤスダグループCMOの谷川烈に半生とオススメのレストランを聞いた
■森保監督もチェックしていたスタッド・ランス日本ツアー
僕は今、「株式会社ヤスダグループ」のCMO(チーフ・マーケティング・オフィサー/最高マーケティング責任者)として働いています。今年、レアル・ソシエダやスタッド・ランスの日本ツアーも担当していました。
森保一監督が8月29日の日本代表発表記者会見で、伊東純也選手の日本代表復帰の理由をスタッド・ランスの日本ツアーのときにどう周囲が対応するかを見て、「落ち着いて彼もプレーできる、チームとしても活動ができるということで判断」したとおっしゃっていましたね。
それは弊社ヤスダグループとしても非常にうれしいコメントでした。弊社はスタッド・ランスのメインスポンサーにもなっています。
ツアーをオペレートしていく中で、チームがシーズンインしていくための身体作りの場でもあったので、そこにストレスがかからないように裏側では気を遣っていました。弊社で海外クラブのツアーを行うのは初めての経験でしたので、しっかり成功させるためにさまざまな観点から準備をしました。
■サッカー選手からビジネスの世界へ
僕は清水エスパルスのジュニアユース、ユースに所属していて、1999年にトップチームに上がりました。高校3年生だった1998年にトップチームのベンチに入れてもらったこともあります。
でも、同期の市川大祐はもう日本代表でしたし、他にも平松康平は試合に出ていて、和田雄三も5月16日のヤマザキナビスコカップ初戦、ホームの札幌戦でゴールを取っていましたからね。高校生のベンチ入りは別に珍しい感じではありませんでしたし、僕自身もうれしいというより、出場できなくて悔しい日々が続いていました。
1999年も、ベンチには入ったり、遠征のとき、万が一ケガ人が出ることを考えてベンチ入りできる人数より1人多く連れて行くんですけど、その1人になったりすることがよくありました。
センターバックだったんで、なかなか出番は来なかったですね。あの当時のエスパルスの守備ラインは、斉藤俊秀さん、森岡隆三さん、戸田和幸さんと、みんな日本代表でしたからね。高校卒業したばかりの選手が割り込むのは難しいことでした。
そんなとき、大木武コーチに言われていたんですよ。「彼らは毎試合Jリーグに出て、日本代表でもプレーしていて成長している。お前はJリーグにも出ない、日本代表の試合もない。でもその中で成長して彼らを超えなければいけない。そういう気持ちで練習しなければいけないよ」と。それで何とかファーストステージに1試合先発出場することができましたし、エスパルスはその年ステージ優勝しました。
プロ2年目になった2000年、ファーストステージ第3節目のホーム・柏戦で89分に斉藤さんと代わって出ることになりました。あの当時は「延長Vゴール」があったので、延長戦に向けた交代だったのだと思います。「やるぞ」という気持ちで一杯でした。
すると96分、アレックス(三都主アレサンドロ)のスローインから久保山由清さんが浮き球でクロスを入れてきたんです。あの当時の日本平スタジアムは芝が深くて、今のように試合前に水を撒いたりもしていなかったので、ボールがキュッと止まったんですよ。タイミングがずれそうでしたがギリギリでうまく右足で合わせました。するとそれがVゴールになったんです。
頭が真っ白になったと思います。あとで動画も見たし、写真もたくさんいただいたので、それで記憶ができたというか。みんなが集まって喜んでくれたのを覚えていますね。実は、父が当時地元新聞の記者でこの試合にも来ていたのですが、試合後の僕の取材のときは照れくさそうに後ろのほうにいた、と他の記者の方から聞きました。
チャンスを掴んだその後の試合にも出られたらよかったんですけどね。この2週間後に肉離れしてしまったんです。それでまた出場機会がなくなってしまいました。2001年になってもファーストステージではベンチに入るけれど出番がなかったので、セカンドステージが始まる前にJ2のヴァンフォーレ甲府に期限付き移籍しました。
甲府では20試合に出場しました。その年の甲府は結局12位で終わったのでそこまで勝てなかったし、勝利に貢献したとも言えなかったのですが、やはりプレーして楽しかったですね。
2002年は清水に戻ってまた出番を掴むために努力したのですが、結局カップ戦に出番があったぐらいで、その年の終わりに契約満了になりました。それでいろいろなチームにアプローチして、いくつか話はありました。キャンプに参加したクラブもあったんです。でも結局どことも契約できないということになったのが2003年2月でした。
そうなるともう国内ではアプローチできる先がないんです。それでアメリカに行ってチームを探しました。「行くしかなかった」という感じですね。エスパルス入団一年目に選手向けに英会話教室をやってくれていました。受講していたのは長谷川健太さん、大榎克己さん、西澤淳二さん、イチ(市川)たちと僕でしたね。それが役立ちました。
代理人を入れてなかったので、とりあえず飛び込んでテストを受けて、合格してそのまま入団しようと目論んでいました。それでメジャーリーグサッカー(MLS)の下部リーグに当たるユナイテッドサッカーリーグ(USL)のニューハンプシャー・ファントムスに入ることになったんです。
ただ、加入してから3カ月でシーズンが終わってしまったんですよ。それでもいろんな経験ができたのは、今思うとよかったですね。基本は週3試合で、多いときは週4試合あったし、バスで8時間かけて移動したり、カナダまで行ったり。
試合を重ねていくなかで、声をかけられたため、メジャーリーグサッカー(MLS)のニューイングランド・レボリューションに何度か練習参加しました。手応えも感じたのですが、3人の外国人選手枠が、元アルゼンチン代表やジャマイカ代表の選手で埋まっていてダメでしたね。あとはアメリカって高カロリーの食事が多くて体重も増えていました。
だから日本に戻ってきて、エスパルスユースの練習に参加させてもらうことにしました。もちろん収入はないし、精神的にも厳しかったですね。あのころが一番つらかったと思います。でもそこでプライドも何もかも捨てられました。
そして2003年の終わりにトライアウトを受けて、水戸ホーリーホックから話をもらうことができました。2004年シーズン、水戸では8試合に出場し、1ゴール決めましたが、年末に契約満了になりました。
「0円」提示を受けたときは涙しましたね。残念でした。でもその水戸の1年は本当に自分でもやりきった気持ちがあったので、「もうサッカーじゃない。次の道に行こう」と考えられるようになりました。今ではあのタイミングで戦力外になってよかったくらいに思えています。
それで大学に行くことにしたんですよ。法政大学のキャリアデザイン学部が3年前に設立されていて、今後自分で自分のキャリアを考えていかなければいけないことを考えると、まさにここだと思いました。
アメリカだと大学の専門分野を生かしてその後のキャリアを築いていくじゃないですか。でも18歳で将来の進路を決めるのは難しい面もあると思うんです。その点、キャリアデザイン学部は社会学部、教育学部、経営学部の3つの要素を学びながらキャリアを考えていこうという学部だったのでとてもいいと思いました。
2004年12月に大学に行こうと決めて、入試の2005年3月までとにかく勉強しました。入試科目が小論文と面接だったので、まずは小論文をどうにかしなければいけないと思い、問題集を買ってきて文章を書いては父に添削をお願いしました。
内容は「ニート問題」「生涯学習の重要性」とかそういう内容だったと思います。6年間サッカー中心の生活だったので、恥ずかしいことに漢字を忘れてしまっていたり、言葉が出てこなかったり、そういうところからのスタートでしたね。朝、400字から800字の論文を数本父に提出すると仕事の合間に赤字を入れてくれていました。
入試には何とか合格することができてホッとしましたね。僕は24歳で大学生になったので他の学生たちと年齢差はあったのですが、いろいろな分野に進む友達ができてよかったと思います。教師を目指している人もいればベンチャー系の経営者になろうとしている人もいました。
大学ではとことん勉強するつもりでした。ところがいざ学生生活が始まってみると、思ったよりも自由にできる時間があったんです。そこでサッカーサークルに入ってみたものの、やっぱりもう少しレベルの高いところでプレーしたくなって、声をかけていただいたFC町田ゼルビアでプレーしました。町田はまだ東京都1部リーグで、そこから3年間で関東1部まで昇格しましたね。
ただ、大学3年生が終わるときに町田を辞めて、そこから就職活動をしました。それで2009年、新卒として「株式会社ブリヂストン」に入社して、ロシア事業部に配属され、旧ソ連諸国のアゼルバイジャン、ウクライナ、ジョージア、ウズベキスタンなどの国にタイヤを販売する営業として仕事をしました。
経済的に成長の途上にある国々だったので、街には次第に高級車が走るようになっていましたね。ブリヂストンのタイヤは彼らにすれば価格が高かったのですが、その高級車に着けるのにはよかったので、ビジネスチャンスが拡大していくようなタイミングでした。年に複数回現地に出張して、現地のディーラーと商談したり、マーケット調査をしたり、仕事でなければ行く機会がなさそうな国ばかりだったので、楽しかったですね。
大学4年生のときと入社1年目はサッカーをしていなかったのですが、ボールが蹴りたくなって関東2部の「エリースFC東京」というチームに入りました。今はもうJリーグを目指すようなクラブですが、僕がいた当時は、仕事、家庭、そしてサッカーに全力で取り組むというようなテーマで、大手企業で仕事をすごく頑張っている人たちが土日に集まってサッカーをするという感じで、とても刺激的なチームでした。
ブリヂストンで6年間働いて、大きい会社がどう動いているのか理解することもできましたし、海外の経験も積むことができました。それでそろそろ自分でも何かやってみたくて大学時代のゼミの先生に相談したんです。
その先生というのが、インターネットリサーチ会社のマクロミルを創業し、その後にキュレーションアプリ「antenna(アンテナ)」を運営する「株式会社グライダーアソシエイツ」を立ち上げた杉本哲哉社長です。杉本さんからは「いきなり自分で会社を興すのにはリスクがあるし、多分どうすればいいか分からないだろう」というアドバイスをくださいました。
僕が「人生の師」と思っているのは2人いて、一人は大木武さん、もう一人が杉本さんなんです。相談しているときに杉本さんから「一緒にやろう」と言っていただいて、尊敬する人からのお話しだったので本当にうれしくて、2015年、グライダーアソシエイツに転職しました。
グライダーアソシエイツで仕事をして多くのことを学ぶなかで当初予想していたよりも長い期間在籍することになりました。執行役員にもなったんですが、「次は自分で何かビジネスを立ち上げたい」とずっと考えていました。特に自分の一番好きなサッカーで、壮大で楽しい仕事がやれないかと思っていたんです。
そのころ、息子が「みなとサッカークラブ」というところでサッカーをしていました。頼まれてコーチをしていたのですが、そこに弊社の代表取締役CEO、安田慶祐の息子さんもいたんです。安田自身も横浜F・マリノスのジュニアユース出身で、話をして意気投合して、この「株式会社ヤスダグループ」に転職することにしました。会社の設立が2023年10月で、私が入社したのが2024年1月ですね。
■ヤスダグループは何をやっている会社なのか
「株式会社ヤスダグループ」は創業からちょうど1年が経ちましたが、まだまだスタートアップ企業ですよ。
弊社の事業には3つの柱があります。1つは今年やったようなサッカーのツアー事業、それからレアル・ソシエダのアカデミー事業、それから契約しているチームのポップアップストアなどでグッズを販売するという事業です。
創立1年目から海外クラブを日本に招致するという仕事をこれだけやって、大変でしたけど、そのぶんいろいろなノウハウが身に付いたと思います。実際のところ、今年に入ってからプロジェクトが動き出したので、時間がないなか手探りで動いた部分もありましたが、来年のツアーに関してはもう今からいろいろアプローチしていこうと思っています。
スクールは「レアル・ソシエダ ジャパンアカデミー」という組織でやっています。今、日本には海外クラブと提携しているサッカースクールがたくさんありますよね。他のところとの違いは、レアル・ソシエダジャパンアカデミーに所属する選手が、現地の「スビエタ」という育成施設でレアル・ソシエダのアカデミーチームのトレーニングに参加できるところです。
今の小学生はびっくりするぐらいうまいですね。僕がユースのときに教えてもらっていたレベルを4年生ぐらいで身につけている選手もいます。そのなかでも上手な子を今年は2回スペインに連れて行きました。今年3月に開校したばかりなのにもかかわらず、アカデミーのキャンプやスクールに参加した選手はすでに800人に達していて、レアル・ソシエダというクラブの凄さを感じています。
レアル・ソシエダの育成についての考え方はとても興味深いです。たとえば育成のトップにレアル・ソシエダがどんな考えで選手を育成しているのか教えてもらったのですが、彼は紙に現在のフォーメーション図を選手の名前を入れてまず書きました。そしてその下に、現在のU-18からはこの選手が昇格してくるだろうと名前を書いていくのです。
さらにその下にU-13からはこの選手が伸びてくるはずだと、これも個人名を書いていました。そしてその名前が埋まっていないポジションの選手を補強しているということでした。強化担当のトップがU-13の選手個人まですべて把握しているというのも驚きました。
そういうスパンで選手の育成を捉えているし、アカデミー傘下の選手たちにしっかり勉強もさせていて、引退後も困らないようさまざまな資格を取らせたりもしているんです。クラブ全体がファミリーで、一度自分たちのクラブに入れた選手には責任を持つという姿勢が伝わってきました。
私たちは「日本を良くしたい」という気持ちを強く持っています。今、大谷翔平選手が大リーグで活躍していますが、将来的に日本を引っ張っていく、世界の中でスターになる人材が、野球やサッカーだけじゃなくて、ビジネス界や文学界なんかでも育てて生み出していきたいですよね。
だから今の子供たちが夢を持って育っていける、そういうスターを創出できるような世の中になっていってほしいと思っています。その中で最初に取り組んでいるのがサッカーです。
まず海外クラブの日本ツアーで、たとえば久保建英選手や伊東選手、中村敬斗選手のプレーを見て、子供たちに「自分もやりたい」という夢を持ってもらう。それでスクールに入って成長して夢を実現してもらうというのが理想です。どうすればそれがより現実的になるのかというのを日々議論しながらやっています。
それにまた別の夢も持っています。
僕がコーチを務めている「みなとサッカークラブ」では、4年生になるとサッカー辞める子が出てくるんですよ。中学受験でみんな塾に行くようになって。6年生になると数人しか残らないなんてこともあります。
「あの子も塾行ったからうちの子も」という感じで、「サッカーはちょっとお休みします」と言ってくるんです。お母さんを責めることはできないですよね。サッカーを辞める選択の前提にあるのは、「サッカーだけやっていると将来が不安」「勉強していたほうが安心」という気持ちだと思います。
でも、僕は勉強なんていつでもできると思っていました。だから4年生でサッカーを辞めて、「ゴールデンエイジ」と呼ばれる、サッカーのスキルが急激に身に付く小学校5、6年生の期間を逃してしまうのがすごくもったいなく感じています。
たとえプロにならなくても、サッカーをやっていることで友達もたくさんできるし、その友人関係が将来的にはビジネスに繋がったり、人生を豊かにしてくれたりするのは間違いないんで、少し寂しいなと。
そしてサッカーやスポーツしかやってこなかったから、「使えない人材」みたいに扱われる風潮を変えたいと思っていました。だからそういうことができる事業を立ち上げたいと思っていたのです。それを実現したいですね。
■人生の師・大木武さんに言われたこと
実は引退して2年ぐらいはJリーグを見なかったんですよ。見る気にならなくて。でもやっぱりプレーするのが好きだったんです。インサイドでボールを蹴るだけで、なんか楽しい。そこからまただんだん見るようになって、今は昔の所属チームの試合を見たり、海外のリーグも見たりしています。
それで4年ぐらい前ですか。エリースのオーバー35の練習に参加したんです。昔の感覚でインターセプトしたときにちょっと押されちゃったら、前十字靱帯を切って手術することになりました。だからもうプレーは子供たちに教えるときにちょっと蹴るくらいにしています。
大木さんには今でも時々LINEしています。現役時代にサッカーはもちろんですが、人生観について教えてもらいました。仕事で上手くいかないときによく大木さんの言葉を思い出します。
「いいときも悪いときも、浮き沈みがあってはいけない。淡々と上を目ざしている者が最後は勝つ」
「昨日、今日で考えるのではなく、半年や1年で振り返ったときに少しでも右肩上がりだったらそれがいい」
この2つはよく言われましたね。そしてよく怒られた(笑)。でも愛があるから。
今の個人的な夢は、いつかサッカークラブのオーナーになることですね。ビジネスで成功して夢を叶えたいです。
■静岡の有名店で食べた「うなぎの一本焼き定食」
レストランですか? えっと、ちょっと一瞬考えてもいいですか。たくさんありすぎて……。
そうだ、今年の夏にも行ったお店を紹介します。レアル・ソシエダ、スタッド・ランスとツアーが続いたので、磐田、大阪、静岡、町田、神戸と社員もみんな2週間ぐらい家に帰れないときがありました。ツアーが始まる前はそれぞれの土地でご飯を食べに行こうと言っていたのですが、びっくりするほど忙しくて外食なんか行けなくて、コンビニのおにぎりを食べて過ごすこともありました。
そんな中、静岡でスタッド・ランスの夕方の練習がないというタイミングがあったんです。それでみんなで静岡にある「石橋うなぎ店」に行きました。店はレトロ感満載なんですけど、味は間違いないです。メニューは「うなぎの一本焼き定食」だけです。
うなぎ好きのアレックス(三都主アレサンドロ)のサインも飾ってありますよ。みんなおいしさにビックリしていました。有名なお店なので、どうか静岡に行ったときは寄ってみてくださいね。
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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート