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ミシャ監督が僕を生き返らせてくれた…40歳になった菅野孝憲の夢【サッカー、ときどきごはん】

 

ユースからトップへの昇格は叶わなかった
J1からはなかなか声がかからなかった
一度は下のカテゴリーでプレーしたけれど
再びトップリーグに返り咲いた

それでも最初は出番が来なかった
そんな逆境から常に立ち上がってきた
そして気付くともう40歳
そんな菅野孝憲に半生とオススメのレストランを聞いた

 

■18歳で知った「自分の評価」と「他人の評価」の違い

僕がサッカーを始めたのは「かっこいい」と思ったからで、モテたいとか、お金持ちになりたい、いい車乗りたい、いい女性と付き合いたいとか、そんな動機だったんです。最初はサッカー選手になりたいなんて思ってなかった。

でもジュニアユースのときからユースまでずっと東京ヴェルディでプレーしてて、自信家だったので「絶対トップに昇格できる」と思ってたし、当時トップの選手たちと練習してても、全然できるという感触もあったんですよ。

親には自宅のある埼玉からヴェルディまで9年近く通わせてもらってたんで、「これでやっと親孝行できる」と思ってました。小学校から中学、高校と毎日、小学校のころはマジで遅く帰れば酔っ払いに絡まれるし。それでたくましくなりましたね。

2003年3月に埼玉県富士見高校を卒業しました。でもトップに上がれなかったんです。クラブから「上がれない」って言われた当日に、なんか……親に謝ってました。その……ヴェルディのロッカールームで泣きながら電話したのは覚えてます。

母から「あなたはどうしたいの」って話をされ、「うん、プロでやりたい」と言ったら、「じゃあそれに向かっていけばいいんじゃない」みたいな。「自分がやりたいことやればいいんじゃない」って、なんかお袋の言葉が今でも記憶にありますけど。親になってみて初めて、やりたいことやらしてくれてたと気付きました。

なんで昇格できないのかという理由は教えてもらえませんでしたね。人から身長が足りないから、という話は聞いてたんで、それが他人の評価なんだろうと初めて思い知らされたっていうか。自己評価と他人の評価の差というのがあると初めて気づかされたというか。

でも腐らなかったですけどね。周りの仲間がみんな信じてくれてたんで。「お前なら絶対できる」みたいな。あのときずっと言ってくれてた仲間に感謝したいですね。心が折れることはなかったし、自信だけはあったんで。

地元にはやんちゃな友だちもいたけど、そうなったら親を泣かせると思ってたし。だから、選択肢がプロサッカー選手しかなかったっていうのもあるんでしょうね。そのへんの覚悟は多分周りの人たちとは違ってたと思います。

そんな裕福な家庭に育ったわけじゃなかったんで、ピッチにしか僕の人生がないことは知ってたというか。これ以外で社会に貢献できることは何もないと知ってたし、やりたいこともなかったですから。

それに人に否定されればされるほど、なんか笑っちゃうんですよね。そういう逆境にワクワクしちゃうっていうか。「否定してくれてありがとうございます」みたいな。

「18歳のときトップに上げないでくれてありがとうございます」という感じのマインドはありましたけどね。否定されたほうが、「ちっちゃい」と言われたほうが、「できない」と思われてるほうが、燃えるところがありました。

そのとき僕は大学に行くつもりがなかったし、プロになれなかったらサッカー界からは足を洗おうって。プロになれなくても何をするか決まってなかったんですけど。そしてその覚悟でチーム探してもらいました。

そのとき横浜FCからお話しをいただいたんです。本当のことを言うと僕は行く気なかったんですよ。僕は世界に行きたかったんで、日本なんて、Jリーガーなんて通過点だと、J2だとスタートラインにも立ってないって思ってました。

だからJ2のチームなんて全く考えられなかったんです。それでも横浜FCの練習に行って、運良く受かったんですけど、自分の感覚としては、今にして思うと失礼な話ですが「滑り止め」という感じでした。

そのあと別のチームの練習に行ったんです。そこはJ1のクラブで、すごく手応えがあって、「絶対合格だ」と思ったんですけど、結果ダメでした。

J1には行くところがない、大学も行く気がないんで、サッカーを辞めるか、横浜FCに行くかという選択の中で、「やるしかねえな」という感じで、横浜FCに行った感じです。

それで2003年に横浜FCに入って、6月18日の第18節、湘南戦でデビューさせてもらいました。その年の全44節のうち24節に出場できて、2004年はチーム最多の43試合に出ましたし、2005年は37試合に出場しました。

ここまでプレーすれば、きっとJ1のチームからオファーがあるだろうと思ってたんですよね。毎年話が来るだろうと期待してたんですが、全然来なくて。それは辛かったですね。「これだけやってても話は来ないのか」って。でも18歳のときに「自分の評価と他人の評価は違う」と分かってたんで、投げやりにならずにすみました。

で、「じゃあ人の評価変えるしかねぇな」というモチベーションになりました。「認めてくれないんだったら、個人として圧倒的なプレーを見せて、チームは優勝してJ1に上がった」みたいなことがないと、多分オファー来ないなって。

そこまで気持ちを切らさずにやれたのは、やっぱり周りの友達に支えられたからですよ。J1で頑張ってる選手もいたし、彼らからの刺激もありましたからね。

友達に話を聞いて「なんでこんなに年俸の差があるんだ」と思ってました。ディビジョンが「1」違ったら額が「10」倍以上違うとか、そういう現実がなんか悔しくて悔しくて。あとはね、やっぱり一番最初に僕が目指してたスタートラインにも立ってないという気持ちがありましたね。

2006年、横浜FCは運良くJ1に昇格することができて、「やっとスタートラインに立てる。スタートラインが見えた」みたいな感じでした。そのとき、やっと他のチームからオファーが来たんです。

そのころの横浜FCの練習環境はヴェルディのユースよりもよくなかったんですよ。練習後にはコインシャワーを使ってて「次の人がいるから早く出てください」と言われる経験もしてたし、練習場もバラバラで人工芝のフットサル場でトレーニングしたりとか。

でも横浜FCに残ることにしたんです。田北雄気コーチから「来年、俺はお前と一緒にやりたいし、お前にとっても自分でJ1に上げたチームで戦うことには意味があるんじゃないか」みたいなことを言われて。自分もやっぱりね、プロになるときここに拾ってもらったというのもあったし。

初めてのJ1ではリーグ戦全34試合でプレーできたんですけど、チームは最下位で1年で降格が決まって、悔しい思いしかなかったですね。

それで2007年が終わるときに柏レイソルからオファーが来たんです。本当は2006年にも誘ってもらってて、2年連続で来たんで、そこは迷わず行こうと思いました。それに僕は横浜FCに自分ができることはすべてやったという感じがありましたから。

ところが2008年は最初にケガをしてしまって、4月一杯までは出られなかったんですよ。柏のデビューは5月3日の第10節、アウェイのジェフ千葉戦でした。ただチームにはすぐ馴染めたと思いますよ。マイペースだから、どんな環境でも自分のリズムを崩さないでできるんで、まあ淡々と楽しんでましたね。

結局柏には8年在籍しました。柏では、ネルシーニョ監督に勝つことの大切さとか、プロとはどういうものなのか、プロとしてどうあるべきなのかということを教えられた感じがします。

普通だったら、レギュラー選手は試合が終わってから次の試合までの期間をただの準備に当てちゃうと思うんです。でもネルシーニョ監督はオフ明けに出てくる選手の顔をすごく見ているんです。

「あいつ昨日飲んでたのか」とか「ちょっと顔がむくんでるな」とか、そこまで見てるんですよ。オフをどう過ごしてきたかみたいな部分も見ていて、そこでダメだと思った選手は平気で次の試合から外したり。

ネルシーニョ監督が指揮していた間中、ずっと週明けから次の試合までまたレギュラー争いがゼロから始まることが続いてたんで、「気を抜いたらすぐやられる」というのは今でも染みついてると思いますね。

日々のコツコツとした積み重ねも含めて私生活でどう過ごすかというのと、どう見られてるかもすごく大事だと思うようになりましたね。自分の見せ方を気にするようにもなりましたね。人間誰でもコンデションがいいときも悪いときもあると思うんですけど、それをなるべく見せないというか。いいときでも悪いときでも波を作らないで、いつも一緒のように見られるという演技というかパフォーマンスというか、ごまかし方が大事だと。

コーチも見てるけど、意外と選手同士も見てますよ。組織の中で特にGKはリーダーじゃないといけないポジションなんで、スキを見せちゃいけないというのは覚えました。24、25歳のころですかね。

そういう感覚はちょっとベテランのような感じかもしれないですけど、サッカーに関しては、いろんな人から話も聞いて「こうなっちゃダメだな」というのを見てきたんで、それで身に付いた感じですね。あとは分からないことがあるのが嫌なんで、どうすればいいかいろいろ人に聞いてきましたし。

学校でも「なんでですか」ってよく聞いてたんですよ。「なぜこの勉強をしなくちゃいけないんですか」とか。先生に「僕はプロになるんですけど、プロになるために、この勉強ってどういうところで必要がありますか」みたいな。

先生たちは「いや、それは……」みたいになって答えられる人がいなかったですね。で、「じゃあ必要ないんで僕ちょっと帰ります」って学校サボってました。リアルな話で。

そのときも「お前みたいなやつはプロになれねえよ」みたいなことも先生から言われて。「いや、大丈夫です。僕なるんで。大丈夫なんで」とか答えてました。まぁ煙たがられてた生徒ではありましたよ。親にも迷惑かけました。でも、それだけ親が自由にさせてくれたということには本当に感謝です。

 

 

■ミシャ監督のチームの選手が羨ましかった

柏は住みやすかったですし、そこで僕のキャリアを築くことができました。2009年には岡田武史監督から日本代表に呼んでもらったし、2011年はリーグチャンピオン、2012年は天皇杯と、いろんなタイトルも取ったし。

あそこの8年間がなければ今の僕はないし。身長に関しても、やっぱり柏でああやって結果を出し続けて評価を覆せた部分もあると思うので、そういう意味では、感謝してもしきれないクラブの1つですね。

ただ、身長とかに関しては別に見返そうとか、なんか人のために頑張りたくないんで。僕は自分のためにやってて、人の軸で生きてるのほどつまんないことないんで。

結果的に柏の最後の年になった2015年もリーグ戦は30試合出たし、アジアチャンピオンズリーグでもベスト8まで進出して、契約更新の話もあったんです。でも2016年に就任する予定だったミルトン・メンデス監督から「中村航輔を福岡から戻すから競争してほしい。チームを若手にどんどんシフトしていく」という話をされて。

 

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