J論プレミアム

30年前、Jリーグが始まったあの日は――(海江田哲朗)

タグマ!サッカーパック』の読者限定オリジナルコンテンツ。『アルビレックス散歩道』(新潟オフィシャルサイト)や『新潟レッツゴー!』(新潟日報)などを連載するえのきどいちろう(コラムニスト)と、東京ヴェルディの「いま」を伝えるWEBマガジン『スタンド・バイ・グリーン』を運営する海江田哲朗(フリーライター)によるボールの蹴り合い、隔週コラムだ。
現在、Jリーグは北は北海道から南は沖縄まで58クラブに拡大し、広く見渡せば面白そうなことはあちこちに転がっている。サッカーに生きる人たちのエモーション、ドキドキわくわくを探しに出かけよう。
※アルキバンカーダはスタジアムの石段、観客席を意味するポルトガル語。

 

Jリーグ30周年記念試合球『KOTOHOGI 30』(コトホギ 30)。
6月11日までの1ヵ月間、Jリーグの公式戦で使用される。

 

30年前、Jリーグが始まったあの日は――(海江田哲朗)[えのきど・海江田の『踊るアルキバンカーダ!』]百五段目

 

■1993年5月15日

1993年5月15日、あなたはどこにいて何をしていましたか? 城福浩監督に訊ねた。

「僕は、富士通で社業に専念していたか、コーチとして現場に戻っていたかの境目ですかね。開幕戦はテレビで観ていました。本当に感慨深かったです。日本のサッカーがこうなるなんて、現役時代は夢にも思いませんでしたから。ヴェルディとマリノスの開幕カードは、日本サッカーの歴史を考えればこの2チームで当然だなと感じたのを憶えています。ただ、そのときの自分のことは……記憶がおぼろげです。社業に就いていたとすれば、丸いものを見るのもいやだってぐらい、サッカーから離れようとしていた時期ですね」

その頃の話は以前、城福監督から聞いたことがあった。

これ以上サッカーを続けたら仕事で同期に追いつけなくなると現役生活に6年で区切りをつけ、JSL2部1988-89シーズンをもって引退。ところが、1993年、富士通サッカー部の監督に就任した中国サッカーの英雄、沈祥福(シェン・シャンフー)のたっての希望で、コーチとして復帰することになる(サッカーに専念することを条件に「異動」を受け入れた)。あまりの激動が記憶を曖昧にさせているのかもしれない。

かくいう僕もまた、Jリーグ開幕のカクテル光線、チアホーンの音と当時の自分がうまく結びつかない。

記憶に留めているのは、僕は大学生でバイトが忙しく、後半の途中からしか試合を観られなかったことだ。武蔵浦和駅の階段を飛ぶように駆け下りて家に帰り、ブラウン管の14型テレビをつけたときは1‐1の同点だった。

この機会にひとつ懺悔したい。これまでは「はいはい、ファーストゴールを決めたオランダ人のマイヤーね。びっくりしたなあ」と、さもリアルタイムで観ていたように調子を合わせてきたが、僕の目に最初に飛び込んできたのはラモン・ディアスの決勝ゴールである。最後のハイライトか、夜のスポーツニュースで「マイヤーって、誰!?」と目がテンになった。

ほんのりサッカーが好きだった程度の僕に、城福監督の抱いたような感慨があるはずもなく、新しい時代への突入をストレートに受け止めていた。そりゃあサッカーも変わらんとなあ、と知ったふうなことを言っていた気がする。

あれから30年後、城福監督は東京ヴェルディの指揮を執り、読売とヴェルディはいけ好かんわと反感を持っていた僕が対面し、次のゲームに向けて話を聞いている。なんでこうなったのか、不思議で仕方がない。

 

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