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監督をやりたかったわけじゃない。「レイソルの監督」をやらなきゃいけないと思っていた。吉田達磨のJリーグ監督道【前編】

 

柏レイソル、アルビレックス新潟、ヴァンフォーレ甲府。監督として率いたどのチームでも成果を上げながら、いずれも完成品を現場で見届けることはなかった。それでも、信念をもって突き進んできたからこそ、そのあとには道ができたと言える。
稀有な指導者・吉田達磨の肖像に迫るべくロングインタビューを敢行した。
戦力が均衡し、勝ち続けるのが難しいリーグで指揮官はどう生きるべきなのか。なぜかくも過酷な監督業を続けたいと思うのか。
Jリーグ30周年の到達点として、リアルな監督論を前編・後編に分けてお届けする。

取材・文/ひぐらしひなつ

【見出し】
・サッカー観をガラッと変えた2つの出会い
・日立台に通えることが無上の喜びだった
・「つまらない」と批判されたアカデミー時代のスタイル
・「レイソルの監督」をやらなきゃいけないと思っていた
・解任されるまでの数ヶ月は「裏切られた」と感じていた時期もあった
天皇杯決勝2日前に「契約延長なし」通告。それでも起こした甲府の奇跡。すべてを受け入れる吉田達磨のJリーグ監督道【後編】

 

■サッカー観をガラッと変えた2つの出会い

――28歳とたいへん早い時期に現役を引退されていますが、やはり中学時代から指導者になると決めていたことがその決断につながったのでしょうか。

もう、そこですね。柏で4年、京都で2年、山形で2年プレーするんですけど、J2で3年過ごしたところで契約満了になりました。当時は大体1年契約だった中で、他のJ2チームから声をかけてもらってもいたんですが、ここでもう1年、生きながらえたとしても、というのがあって。選手としてもそれ以上は行けないということもわかっていたし、いずれにしても指導者の道に進むということは決めていたので、だったらその前に自らが外国籍選手としてもプレーしてみたいなと思って、海外にちょっと行って。そのあとすぐに指導の道に入ったという感じです。

――いまあらためて、現役時代のご自身を、どういうプレーヤーだったと表現されますか。

最初はテクニックとか戦術眼みたいなものを売りにしていましたけど、やっぱり最終的には汗かき役でしたね。チームのために働く選手でした。プレーヤーとしてはいろいろなことを経験しました。試合に出た時期もあれば出られなかった時期も長かったし。

――東海大学付属浦安高校3年生のときから部活のトレーニングメニューを組んでいたと聞きましたが。

そうです。監督が任せてくれていたのもあるし、キャプテンだったというのもあるし。当時としてコーチが多くいるような高校でもなかったので。だから僕にとっての5、6時間目はそういう時間でしたね。授業よりも「今日のトレーニングは何をやろっかなー」って(笑)。

――どんなトレーニングメニューだったんでしょうか。また、それに対するチームメイトたちの反応はいかがでしたか。

ガラッと変えたとかではないんですけど。伝統的な走りといった昔の部活の“ザ・高校サッカー”という感じのものも残しつつ、よりテクニカルに、というものを取り入れていったという感じです。本当に“ザ・部活”だったから。

多分、それまでの2年間よりもおそらく面白いトレーニングだったと思います。反応がいいとか悪いとかは、そういうふうには意識していなかったのであまりわからなかったけど、確実にサッカーをやっているという楽しさはあったと思いますね。少しずつスタイルが変わっていったという感覚もありました。

――そういう昔ながらの部活の枠を超えたトレーニングの知識は、どこで得ていたんですか。情報もそれほどなかったのでは。

そうですね。ベースになっていたのは、自分が小6のときに出会った「アセノスポーツクラブ」というクラブチームです。当時の主流はスポーツ少年団だったんですが、そのクラブチームに出会ったことで一気にガラッとサッカー観が変わって。その出会いから、アセノのジュニアユースで中1までプレーして、中2からはレイソルの前身である日立製作所のジュニアユースへ。その2つのクラブで「これは楽しいぞ」という経験をして、それが基本的にベースとなっていました。

――現在のレイソルアカデミーのイメージはあるんですが、それは達磨さんが作り上げたものなので、それ以前のイメージがなかなか湧かないんですが。

決して僕が作ったものではないんですが…当時、昭和から平成に変わるくらいのあたりって、ボールだけを使って練習を続けるというのは本当に珍しい時代だったから、それこそが本当に楽しくて。1人で、あるいはグループで、相手の逆を取るといった面白さを教えてもらって。高校でトレーニングメニューの考案を任せられたときに、それをやりたいと思ったんです。だからあまり情報源とか当時の日立がどうだったかという感じではなかったですね。

僕らが日立で指導を受けたのは成島さんというコーチで。28歳か29歳くらいで怪我で引退してすぐに僕らのコーチになって、静岡学園出身の方なんですけど、ひたすらテクニシャンで。

日立台の、トップチームとアカデミーの練習場が隣同士で並んでいるというのは当時から変わっていないんです。僕らのグラウンドにもトップチームの選手たちがたくさん遊びに来てくれるような環境で。そんなに特別ユニークな練習をしたという記憶もないんですが、ただボールを使って相手を騙したり逆を取ったりというところの面白さを、本当に堪能させてもらいました。

――足元重視だったんですか。

ドリブルとかボール扱いのテクニックに対しては、それほど関心はなかったんですけど。それよりも、テクニカルな、サッカーが上手いと楽しいぞっていうところですよね。違う言い方をすれば。サッカーの上手さというのは、ボールを持っていても持っていなくても、相手を騙してプレーするところ。

僕は体が小さかったので、小さいながらに大きな相手にどう立ち向かっていくかとか、体のサイズは関係ない、上手ければいいんだよというのを、その小6から中学時代にかけて、刷り込まれて叩き込まれて。それがずっと僕の礎というか、肝にありますね。その価値観はいまもまったく変わっていません。

 

■日立台に通えることが無上の喜びだった

――指導者になるならレイソルでということも決めていたのですか。

そうですね。指導をはじめるなら柏に戻りたいなと思っていました。本当に、日立台が現在の形になる前の時代から知っているので。あそこは何回も変わっていってるんですよ。スタンドのある場所、大きさ、位置。僕はそこに出来立ての頃から通っているので、それを全部知っている。ホームゲームの時は小さな小さなスタンドでトップチームを応援しましたし、中2の時にはJSL2部から1部への昇格が決まった試合を富士通のグランドまで見に行って、試合後西野さんの着ていたユニホームをもらったこともありました。13歳で出会って、いまだにつきあいがありますし、愛着もあるし。だからそこで指導者としてスタートできたら最高だなと。…まあ、その前にトップチームの選手をやりたかったですけど、そのときは。

――現役を引退し、いよいよ指導者としてのスタートを切ったとき、やりたいことというのは明確にあったんですか。

いや、そういう感じではなかったですね。自分はこういうサッカーが好きだというのはあったけど、それよりもレイソルが好きだったんですよ。自分がどういうサッカーをしたいとかいう、そんなことよりも、そこに戻れてそこで働けて、もう一回、日立台に通えるということが単純に幸せだなって。

海外から帰ってきて、9月だったと思いますけど、そのままレイソルに挨拶しに行ったんです、「選手やめまーす」って。で、「空きがあったら僕、いいコーチになりますよ」って、昔からの仲だったのでそういうノリで行ったら、向こうも「いまは無理だよ」「お前なんか無理だよ」って言いながら(笑)、「一応頭に入れておく」って言ってくれて。

そのときにお世話になったのが、佐々木直人さん。いまは広島で強化の仕事に就いていらっしゃるんですけど、その佐々木さんがレイソルに推薦してくれたり、他のJクラブを紹介してくれたり。実際そのお陰で他のクラブのアカデミーに入ることがほぼ決まっていたんです。

それが12月になって、レイソルから「空きが出たけど」という連絡が入り、僕を採用したいと言ってくれたクラブの方には本当に申し訳なかったんですが気持ちには逆らえず、「実はレイソルから電話をもらったんですけど…」と話したら「あなたにとってのレイソルがどういう場所かというのはわかっているから、それはもう、そっちを優先しなさい」と言ってくれて。それで晴れてレイソルに入れることになったんですね。

 

■「つまらない」と批判されたアカデミー時代のスタイル

――たとえばアカデミーOBがクラブ愛が強いというのはよくあることなんですが、OBではない人でもレイソルアカデミーで達磨さんと一緒に仕事をした方々のレイソル愛って、すごく強い気がするんですよ。

(笑)。それはわからないですけど、うれしいですね。

――下平監督が大分に来たばかりの頃にも話していました。レイソルアカデミーの指導者は団結力が強く、みんなでひとつのサッカー観を共有して、みんなが達磨さんのやり方を好きで、それをやりたいと夢を共有して、全カテゴリーのスタッフで一緒に富士山に登ったら全カテゴリーで優勝したんだよという話まで聞いてます(笑)。

いろいろ知ってますね(笑)。確かにそうでした。

――トップチームのスタイルにアカデミーが合わせようというケースはよくありましたが、アカデミーが先にスタイルを確立したという点で、当時としてはレイソルは先駆者的だったのでは。

いま言葉にしてしまえば先駆者ということになるかもしれないんですけど、当時は批判と否定で大変でした。「『一貫指導』とか言ってるけど指導者のやりたいことを押しつけてるだけじゃないか」とか「サッカーが機械的でつまらない」とか、いろいろ批判されましたよ。

――でもその後、スペインブームというものがやってきたときに、みんなそれを理解できたわけですね。

何年か経ったら全然変わってきました。中村航輔、秋野央樹、小林祐介、木村裕、中川寛斗たちが高3、中谷進之介が高2のときだから2010年かな、クラブユースのタイトルを獲った。そのことでひとつ完結したというか。ユースの大会で日本一を獲るというのは、やはり大きな出来事でした。なんだかんだそれまでユースは優勝はしていなかったので。

――それぞれに哲学を持っている指導者たちが達磨さんのやり方に賛同してくれた、いちばんのポイントはどこだったんでしょうか。

いくつかあると思いますけど。本当にそれって奇跡的なことで、そういう組織は二度と作れないかもなとも思っているんですよ。一緒にやってくれた面々の中にはレイソルのレジェンドと呼ばれる人たちもたくさんいるし、代表クラスの人もいて、それぞれに自分はこうやって生きてきたというサッカー人としてのプライドのようなものもある。その中で「このサッカーいいよね」というふうになった。

僕は「こうしてほしい、ああしてほしい」ということはあまり言ってなかったです。ただ「選手にはこう接してほしい」とか「こういう接し方だけは絶対にするな」とか「こういう振舞いはやめてほしい」とか。で、「サッカーは基本的にダイナミックにボールを持ってプレーしていこうよ、そのために必要なことはこういうことだよね」ということをよく言っていましたし、コーチ陣で午前中に集まって僕の練習をみんなでやって、そのあとランチしながらあれこれ話しをしたりして。サッカーそのものはもちろんそうなんですが、考え方、精神のあり方にみんなが賛同してくれたことが大きくて。

でもそれは、みんなが最初からというわけではないんですよね。「子供らしくガンガンやらせとけば良くない?」とか「パターンが決まってんでしょ?」ってところから入ることが多いんです。別にそんなに深く考えないで良いでしょって。

コーチ業を簡単なものだと考えているというか。「俺は選手時代はこうやってきた」っていうものが当然あって、それを活かした指導をするというよりも、何となく良くないって分かっていてもそこから出られずにいる。僕もそうだったと思うし。でも実際に選手たちに接してみて、チームを運営して、仲間のコーチと協力してとなってくると、「あれ?」ってなる。結構大変だって。そして自分たちがやっていることの意味がどんどん身に染みてきて「あ、こういうことか」となる。なにかによって選手の判断を奪っているわけでもなく、パターンなんてない、何より選手が楽しそうにやってるね、という、最終的にそこに行き着くんですよね。

それで、風間八宏さんじゃないけど「目が揃う」というか、見るものがだんだん一緒になってくる。「だってこうなったらこうなるじゃん」というのが伝わり通じ合うようになってくるんです。それが強制的にじゃなくて、自然に集まって、自然に育まれていって、それがしっかりと引き継がれていく。

…まあでも、いま話していて思ったけど、いちばん大きかったのは、みんなクラブに対して、自分たちのサッカーに愛着とか愛情といったものがかなりあったんですよね。OBだろうとコーチとして縁ができた人も。ここで働いていることに“あたりまえ感”がないというか。毎日ちょっと興奮して仕事に来るみたいな。それが確実にあったと思いますね。あれは普通じゃなかった。毎日熱いみたいな。

――毎日そこで会って、お互いにそういうものが高まりあっていく感じなんですか。

ありましたね。もちろん僕は育成部長をやっていたり、あとは酒井宏樹や島川俊郎たちの代がひとつのモデルみたいになっていて、彼らが取り組んでいる姿勢といったものを下の世代の選手たちが真似したり。そういうのが次第にどんどん出来てきて、それが形になりました。

――下平監督も大分で、現場の一体感を非常に大事にしています。当時の経験から来るものなんでしょうか。

どうですかね、その後もいろんな経験をしていますし、つらい目にも遭ったと思うので、それはわからないけど。

ただ、指導者同士、みんなよく喧嘩もしてましたけど、僕たちにはトップチームの成績とか監督といったものに左右されない、柱となるサッカーと目標があった。それまでは日本サッカーもレイソルもそういったものに左右され続けてきていましたから、少なくとも僕たちはいつでも選手を安定供給しようと。アカデミーから育ってきたら、まずこのクラブが大好きで、このクラブにすべてを捧げることが出来るというマインドセットにして、トップチームに上げていく、そこをいちばん大事にしていたので。

当時の仲間はそういうところを、また新しい環境に行ったりちょっと難しい局面を迎えそうなときとかに、思い出すんじゃないですかね。みんなが同じ目標に向かっていくことで、強いものが生み出される。多分シモさんもそれを知っているから。

――レイソルアカデミー育ちの選手たちも、話を聞くとみんなそんな感じですよね。

ああ、それはうれしいですね。

――島川選手なんて大分時代、レイソル戦の前になると「ひぐらしさん、日立台行くんでしょ? 駐車場にときどき猫のウンコが落ちてるから気をつけてね」とか、目をキラキラさせながら言ってたんですよ(笑)。

気持ち悪いですよね、ホントにね(笑)。アイツは本当に、そういうレベルで愛が深い選手なんですよ。

 

 

■「レイソルの監督」をやらなきゃいけないと思っていた

――そうやってアカデミーにひとつのスタイルが確立してきたタイミングで、達磨さんはトップチームの監督に就任されました。アカデミーからのスタイル一貫や、トップチームの編成としてアカデミー選手8人に外国籍選手3人で「8+3」を目指すという方針があったということですね。

7+4、良い時は8+3。スタメン11人に7人のアカデミー出身選手に4人の外国籍、もしくは代表クラスの選手で行けるようになるのを理想としてました。

もともと僕の監督業のスタートは「監督がやりたい」ではなく「レイソルの監督」をやりたかったというか、やらなきゃいけないと思っていた。今となっては勝手にですけど、アカデミーでこれだけみんなでひたすら走って時間も熱も捧げて来て、スーパーな選手こそ時々しか出せないけれど、それでも安定して選手をトップチームに供給できるようになってきた。その中でその出口は絶対に作らなくてはならないなと。

 

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