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マリノスは「大人」…ヴェルディ育ちの富澤清太郎が語る名門チーム同士の不思議な関係【サッカー、ときどきごはん】

Jリーグが始まる直前の日本サッカーリーグ
牽引していたのは読売クラブと日産自動車だった
ヴェルディとF・マリノスになった両チームは
その後も激闘を続けていく

時は流れヴェルディは苦難の時代へ
そして生粋の選手が横浜F・マリノスに移籍する
両者の異同を感じつつその後への道を作った
富澤清太郎に半生とオススメの店を聞いた

 

■強化部に異動して「全く通用しなかった(笑)」

2023年2月、横浜F・マリノスのチーム統括部・強化担当となりました。僕自身もまだ把握しきれてないところがたくさんあるんですけど、大きくまとめて言うと、現場と違った視点でチーム全体を見ながら強化していくという立場です。

少しずつでもチームに積み上げがあるように、強くなっていけるようというところを第一に考えて、選手だけじゃなく、スカウトや現場の人たちが困らないで仕事ができているかという部分も含めて見ています。

まだまだ、分かってないことだらけという現状ではありますけど。

強化の仕事というと、たくさんの人が持ってるイメージとしては、黒いノートを持ってチームがやってることをチェックする、みたいな感じだと思います。けれど、強化の中でもいろいろ役割がありますね。僕自身の仕事は現場に近いところでやらせていただくことがメインです。

練習にはジャージを着て、ボールを拾ったりもしますし、試合の時はスーツを着用してみんなと一緒に試合の会場に行き、チームの状況を見ています。あとは苦手ですけど、事務的なこともやってるんですよ。

周りの方たちから「事務作業は大丈夫か?」と心配されてると思うんですが、試合のレポートだったり、現場に行って日報書いたりもやってます。ピッチの上に立ってる現役のころとはやることが大きく違ってるんですけど、その中でもつながっている部分は当然あります。

自分はどういうものが長けているのか、そういう部分も整理しなければいけないし、仕事をやっていく中で形作っていかなくてはならない部分もありますね。ただ、何がなんでもすべて自分1人でできることではないので、自分ができることをしっかりと理解して、形になっていけばとは思っています。

昨年まではスクールのコーチをしていて、現役時代にやってきたことをそのまま出せていたので、やることが変わってもきっと同じようにやれるのではないかと思ってたんですけど、まあ、現役のときのことは全く通用しなかったですね(笑)。

役職が違うとこなすタスクが全然変わってきてしまって。自分の経験がいつかは生きてくれるかなと思いますけど、今はもうそれどころじゃなく、日々一生懸命に過ごすだけで振り返る余裕がない中でやっています。

 

■ヴェルディは「サッカー小僧」でマリノスは「大人」

僕は東京ヴェルディのアカデミーで育って2001年にトップチームに昇格したんですけど、最初の4年間は先発に定着できなくて、2005年は1年間、J2のベガルタ仙台に期限付き移籍したんです。

あのころのことで真っ先に頭に浮かぶのは、本当にいろんなことに対してのめり込んでいた姿ですね。若さ故に入り込んでいて周りを見る余裕もなく、必死にやってたというか、そういう感じでした。

そのころ名だたる選手たちから、いろんなことを伝えていただいたと思います。僕がいた時代は監督に松木安太郎さんで、選手も名だたる選手ばかりで、そういう栄光のメンバーに囲まれてやっていました。その方々から教えていただいた言葉をその後に生かせたサッカー人生だったと思います。

当時はただ一生懸命サッカーをにやるだけで、1歩引いた目で見るとか、そういう余裕もありませんでした。けれど、教えていただいた言葉がその後にリンクして形になっていったんです。そういう方たちと一緒にプレーできたのはすごく財産になりましたし、運がよかったと思っています。

この立場になって昔の自分を振り返ると、「あの時クラブはよく自分をプロにしたな」と思います。プロになるには技術的な部分、精神的な部分、他にもいろんな要素が必要じゃないですか。僕はいろいろ欠けてましたからね。

僕がプロに成り立ての2001年、ヴェルディは降格の危機に瀕していたんです。ファーストステージは最下位で7月には松木さんから小見幸隆さんに監督が代わって。それでもセカンドステージ10節で16位中15位でした。

そこにエジムンドが救世主として加入したんですよ。エジムンドはすごくインパクトがありましたね。

ヴェルディの文化として、サッカーで実力のある人間は認めるというのがある反面、そのこだわりがすごく強いんです。アカデミーのころから、技術的な部分で劣ると、他の部分で長けているところがあったとしても「下手くそ扱い」になって、パスをくれない、相手にしてくれないんです。

ただ、エジムンドは圧倒的なスキルとカリスマ性でたちまちチームの中心になりました。飛び抜けたタレントだったんで、みんなもちろんパスを出しましたね。

そうやって一時は危機を脱したんですけど、結局2005年J2に降格して、ラモス瑠偉監督の時の2007年に1度昇格するんですけど、2008年にはまた降格が決まって。

そのころの自分はまだサッカーというものを理解しきれず、ただ一生懸命に先輩たちに引っ張ってもらいながらやっているだけでした。もう少し賢ければいろいろと考えてプレーができたとは思います。両親に感謝しなければいけないんですけど、肉体的な部分は割とあったので、体力任せなサッカーでしたね。

でも、ラモス監督の下で練習できたのは本当にいい経験でした。僕はヴェルディが優勝を重ねていた黄金期にはいなかったですけど、みんな「当時から比べるとラモスさんは優しくなった」とおっしゃってました。

それでもラモス監督の下でやる練習は、ピリピリ感って言うんですかね。半端じゃなかったです。ミスなんて出来ないし、若造の僕にとってはパス1本来るだけで緊張しちゃって、いつもなら止まるボールも止まらないし。

レベルが高くなればどんどんあの空気感になってくるのは間違いないので、あそこで、ああいう空気感と出会えたのは本当に良かったと思います。

J2に降格した後もヴェルディで2011年までプレーしたんですが、そこから横浜F・マリノスに移籍しました。昔だったら「禁断の移籍」みたいな話ですけど、僕には移籍しなければいけない理由があったんですよ。それは年齢がちょうど30歳になる年だったということです。

 

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