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佐賀からサッカーを途絶えさせちゃいけない…サガン鳥栖前社長・福岡淳二郎が語った2年間【サッカー、ときどきごはん】

 

有名選手を獲得するなど順調に見えたクラブが
かつてないほどの赤字を出してしまった
クラブの立て直しを任されることになったのは
教育畑一筋でやってきた県サッカー協会会長

2年間で黒字転換させ退任した福岡淳二郎に
その困難の時間をどう過ごしたのか
波乱が続くクラブへの思いや自身の半生を
オススメのレストランとともに語ってもらった

 

■サガン鳥栖を存続させるため「やるしかない」状況だった

2021年、サガン鳥栖の社長になったときはですね、「もうやるしかない」というのがありましたね。65歳でした。全然違う世界に飛び込んだんですけど、とにかくサガン鳥栖を存続させなくちゃいけないという思いです。だからホント、依頼があったときに後先考えず「やるしかない」だったですね。

そのときのサガン鳥栖は3年連続赤字で、2019年は20億円以上、2020年も7億1000万円の赤字を出してましたし、大手のスポンサーさんが離れたりした時期でした。経営状況を冷静にいろいろな角度から見ていたならば、社長就任もお断りしていたかもしれないですけど、そういう余裕もない状況でしたし、とにかくサガン鳥栖がこの先につながっていくためには「もうやるしかない」でしたね。

 

■鳥栖フューチャーズ解散と坂田道孝先生

1996年にサガン鳥栖の前身の鳥栖フューチャーズが解散したとき、僕は佐賀県サッカー協会の中学校担当の技術員で、トレセンなんかを担当したり県選抜を世話したりしてました。だから佐賀県出身でサガン鳥栖に入団した蒲原達也君とか片渕浩一郎君、佐藤真一君、森惠佑君と関わったりしてましたね。

あのときは、Jリーグの川淵三郎チェアマンが超法規的な措置を取ってくださいました。解散だから、本当は新しくチームを立ち上げて県内のリーグから出直さなければいけないのに、ベースとなる選手たちが残っているからということで翌年のヤマザキナビスコカップにも日本サッカーリーグにも入れてもらってね。

だけどそこで出来たサガン鳥栖はバックに企業がなかったから、佐賀県サッカー協会が支えなきゃいけないと。特に、サガン鳥栖の最初の監督が楚輪博監督で、僕は法政大学の同級生だったもんですから、もう協力するのは当たり前で。僕は1浪して大学に入ったんで、楚輪は1歳下なんですけど同級生なんです。楚輪と一緒に来たGKコーチの坪田和美も同じ歳ですね。

サガン鳥栖が出来る前は佐賀県に出向して生涯学習課というところで働いてたんです。それでサガン鳥栖が立ち上がるというときに「県庁から誰が鳥栖に支援に行くか」ということになり、真っ先に手を挙げました。それですぐ鳥栖中学校に赴任していろんな活動をしたんです。

年間チケット、今の「ドリームパスポート」が当時は「クラブサガン」と言ってて、僕がその担当委員長、税務署の方が副委員長になって「申込書をどこに置くか」と話し合ったんです。最初は郵便局の窓口に置かせてもらおうということで、佐賀県内のすべての郵便局を回りましたね。

なぜ頑張れたかというと、坂田道孝先生という存在が大きかったですね(故人、元佐賀大学教育学部教授。鳥栖フューチャーズの誘致とサガン鳥栖の設立に奔走した当時の佐賀県サッカー協会の理事長)。先生をみんなで支えようという思いが強かったですよ。

坂田先生の教え子ばっかりじゃなくて、協会の役員、サガン鳥栖をサポートしてくれるファン・サポーターの人たちも、みんなが手弁当で支えてましたね。ただ昔はなかなか勝てなかったですね。もしも降格制度があったら大変でした。いつもずっと下位でしたから。

環境も整ってなくて、最初に練習したところは武雄市の山の上のグラウンドで、芝は芝なんですけど冬芝とかじゃなくて寒い時期は枯れてるんです。鳥栖フューチャーズが使っていた神埼のグラウンドは、今はなかなか使えませんね。少年サッカーのスクールなんかでは使えるんですけど。たぶん、解散の時にご迷惑をおかけしたんじゃないですかね。

でも何とかクラブは存続することができて、1999年にはJ2に入ることが出来ました。そのときみんなで言ってたんですよ。「自分たちが生きてる間にサガン鳥栖がJ1に上がるのは難しいかもしれないな」って。でも、J1に上がるよりも鳥栖にサッカーを存続させようというのが思いだったですね。

それからいろんな紆余曲折がありました。クラブと佐賀県サッカー協会がギクシャクした時期もありましたね。あのころだけは僕もサガン鳥栖から少し離れていました。もちろんそのときも支える気持ちだけは忘れていませんでしたけど。

 

 

■初出勤の翌日、ある部長から「明日退社します」と言われた

2019年に佐賀県サッカー協会の会長になって、その翌年にサガン鳥栖社長就任の話が来たんですよ。それで話の翌年の2021年2月から2年間務めて2023年の2月に退任しました。

僕が社長になったとき、「教育畑の人で大丈夫だろうか」と心配する人はいたと思います。実際に言われましたね。「なんでお前が社長になっとっとか」とか「火中の栗を拾っとるぞ」って、もういろんな人に。

それまでの自分の仕事としては公務員が長かったですし、子供とか親御さんとかとの付き合いが多かったので、そこにいろいろ金銭が絡むとですね、本当に考えさせられることもありました。

2年間務めて、苦しかったのは……まずはやっぱりJ1残留というのがですね、苦しかったですね。自分は直接チームに関わらないんですけど、自分もサッカーをやってきて現場との関わりというのを大事にしてきたので、J1残留は最低限のノルマだと思ってました。妻とは冗談でね、J2に落ちたら石を投げられるんじゃないかと言ってたんですよ。

あとはやっぱり経営面ですね。大変な思いをしたのはクラブライセンスの制度の中で、J1のクラブとしての資格を持ち続けられるかという点でした。ここ数年はコロナ2019の特例措置でなんとかライセンスは維持できてますけど。

経営面はもう、僕は本当、確かに民間には2年ぐらい勤めたことはあるけどそれ以外は公務員しか経験のない中で就任したんで……。そういう経営面では、ベストアメニティホールディングスの内田弘会長に助けていただいて、役割分担をしながらやってました。

チームの運営的な部分は私、経営や営業的なところは内田会長というような、そういう役割分担をしながら進めてきて。やっぱり内田会長は全国に顔が広くて、いろんな新規のスポンサーさんなんかも集めてくれてですね。

だから僕もですね、そういう経営手腕とかの面ではもちろん足らない部分はあったけど、いろいろ考える中で「自分にしかできない部分のところを中心にやっていこう」と決めたんです。

サガン鳥栖はプロのクラブだから利益を上げなくちゃいけないと同時に、Jリーグが持ってる理念、地域との連携ですね、そういうのは僕もサガン鳥栖が出来るときの最初から目指したものだし、ここをもう1度、地域との繋がりを深めていこうと力を入れたっちゅうのが、この2年間ですかね。自分にできるところを重点的にやっていったっていう感じですね。

2年間やってきて、本当ね、どこまでやれたかっちゅうのは分かんないですけど、ある人から「サガン鳥栖が非常に身近に感じられるようになった」って言ってもらえたのはうれしかったですね。

それからこの2年間で行政側ともフランクに話せるようになって、ホームタウン連携協定を結んでくれる自治体も増えて、サガン鳥栖を広められたんじゃないかとは思っています。

まぁ、他にも大変だったのは……いろんなことありましたからですね、はい。

 

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