家族が「来月どうやって暮らそうか」…逆境を経験した小池龍太が見たかった景色【サッカー、ときどきごはん】
禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し
故事成語はそういうものの
故事成語では不幸のあとには幸が来るとされるが
それが来るまで待つ側はつらい災害に見舞われ年俸なしでスタートし
何度もたたき落とされもした
それでも次のステージが見えてきた
激動の小池龍太に半生とオススメの店を聞いた
■卒業後の進路が決まらずアマチュア契約に
2009年、中学に進学するとき地元を離れて福島にある「JFAアカデミー福島」に入りました。そのとき「サッカーを職業にする」とか、そこまでの決心があったかどうかは覚えていないんですよ。目標というか夢ではありましたけど、その決心がすごい強いものだったのか……。
「どうすればプロになれるか」というのが分からない状態だったので、「JFAアカデミー」が「プロへの近道」みたいな、そんな言われ方もしていて、その言葉に飛びつくしかなかったというところです。
福島の中学に3年間通いながら「JFAアカデミー福島」でトレーニングしていたんですけど、中学校の卒業式のあと、寮に戻ってみんなで卒業アルバムや思い出DVDを見ているときに東日本大震災が来たんです。最初はそこまで大きな揺れではなかったので「収まるかな」と思っていましたが、一気に大きくなってみんなで外に逃げました。
でも幸い僕たちの年代は卒業式で親が来ていたので、車で来ていた人たちに同乗する形で避難所を回ることが出来ました。大人が多くいたというのはすごくよかったと思います。
震災の影響で「JFAアカデミー福島」は静岡県御殿場市の時之栖に場所を移して活動することになりました。福島で3年間過ごして、地元のみなさんにすごく支援や応援していただいたので、そこから拠点を移すっていうことに対して、自分自身も不安はありました。
自分たちが大切にしてきた場所から引っ越す、福島の方々の近くじゃない場所でサッカーをするっていうのは、僕自身だけじゃなくて、アカデミーの人たちも、日本サッカー協会にとってもすごく重い決断になったんじゃないかと思っています。
高校3年間は、プロにならなくちゃいけないというか、自分の中ではその道しかないと考えていたので、どうやって次へのステップ行く扉を開けるかを常に模索してました。アカデミーからいろんなチームに練習参加のお願いをしてもらってドアを叩きに行かせてもらうんですけど、同級生の中で自分だけはなかなか決まったらなかったんです。
歯がゆさはあったんですけど、僕自身の能力が到底足りてないとは感じなかったんです。クラブの状況、他の獲得選手との兼ね合い、色々あると思いますが、その様な運や状況を覆せる力が足りなかったと思います。
参加したクラブがすべてダメということになりかけたときは、大学や海外のクラブに行く道もいろいろ模索しました。そして最後にレノファ山口にご縁があり、「これが国内のラストチャンス」だと思ってました。それで練習参加させてもらったら評価していただいて加入できることになったんです。でもアマチュア契約ということでした。
アマチュアなのでサッカーしながら働かなければいけないんです。スポンサー企業の会社で働かせてもらうか、サッカースクールで子供に教えるかという選択肢がありました。僕は若かったし一人暮らしだったので、いただくお金が少なくても縛られる時間が少ないほうがサッカーに集中できると思い、サッカースクールで働くことにしました。
山口は入団した2014年こそJFLでしたけど、2015年はJ3、2016年はJ2と昇格していきました。でもJ3への昇格やJ3優勝は僕の力じゃなくて、チームやチームメイトに恵まれたという感覚です。
JFLやJ3のころは、僕自身がまだサッカー選手っていうのはどういう職業なのか、どういう見られ方をするのか、何をしなければいけないか、どうやって生き残っていくのか分かってなくて、ただがむしゃらに走っていただけです
僕はJ3のときまではアマチュア契約でした。J2に上がるときにプロになったんですよ。そのJ2時代の2016年に結婚しました。JFLの途中から妻とは一緒に同じ夢を追っていたというか。
「J1に行きたい」という僕の夢を知って、「ご飯は外で食べるよりも作ったものを食べてほしい」と宅急便で送ってサポートしてくれるような方でした。結婚も「彼女と成功したい」という意味が強かったんです。自分の年俸のことは考えてなかったですね。
J2では全試合に出場して、自分自身でもかなり能力が高くなってきたと自信が付いてきたところで、2017年、J1の柏レイソルからオファーをいただきました。それまでの決断で1つでも違うほうを選んでいたら、今の自分はなかったと思いますね。
柏からオファーが来たとき、ついてきてくれた彼女に恩返し……じゃないですけど、そういう報告ができて2人ともすごく幸せでした。親もすごく喜んでくれて、その顔を見て僕自身もJ1に来るまでの道はすごくやりがいがあったと思いました。
柏に行って、このままずっと柏でプレーしたいと思っていたのですが、2019年に柏はJ2で戦うことになったんです。J2に降格したとき、いくつか移籍のお話しをいただいたんですけど条件に合うクラブがなかったし、柏から国内移籍することは正直考えていませんでした。
ただ昔からの夢だった海外移籍は諦めていませんでした。そして海外に行くのなら柏から移籍したいと、常々クラブにもお話をさせていただいてました。ウインドウが開くとお話があったりしましたけど、やっぱり年齢を追うごとにその数も少なくなってくるのを実感していました。
それで2020年、ロケレンから話が来たときには、「確実にこのチャンスをものにしたい」「サッカー人生の夢をすべてやり遂げたい」と思って決断したんです。
■念願の海外移籍もクラブが破産
ところがその年いっぱいでロケレンが破産してしまったんですよ。普通はなかなかありえないことだと思うんですよね。もちろんそんな経験はしたくなかったですし、今は「面白い人生だ」と笑うことはできますけど、当時はホント笑えなかったですね。
実はロケレンに移籍するとき、自分で移籍金の一部を払ってたんです。そしてロケレンに行くと今度は給料の遅配とか未払いとかが続いて、そのまま破産したんでほとんど年俸を貰えませんでしたね。
※この続きは「森マガ」へ登録すると読むことができます。続きはコチラ