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先輩への君付けと独特な人間関係…名良橋晃が経験したサッカーチームのリアルな雰囲気【サッカー、ときどきごはん】

カリスマの異名を持つ格闘家が言った
「いじめられた俺を庇ってくれた」
言われた本人にそのつもりはなかったが
何をすべきだったか、今、改めて考える

ライバルばかりがいる中で
個人事業主として立場を築かねばならない
そんな中でどんな人間模様があるのか
名良橋晃に自分の経験とオススメの店を聞いた

 

■いじめを止める勇気を持つべきだった

キックボクサーの立嶋篤史が、小さいころにいじめられてたのを僕が庇ってくれたとずっと言ってくれてるらしいですよね。

(立嶋篤史:1971年生まれのキックボクサー。キレのある攻撃で頭角を現し、1990年代には「立嶋ブーム」を巻き起こした。ライバルだった前田憲作とのタイトルマッチは「世紀の一戦」と言われ、当時を知るファンからは現在もカリスマ的な人気がある)

篤史はそう言ってくれてるんですけど、僕としては普通に接してただけなんですよ。僕ともう1人、前田晋作という幼なじみの3人でいつも遊んでたんです。たぶん僕と晋作がいたことで支えになったんじゃないかと思います。

小学校一年生の時からクラスメイトで、団地も僕が8号棟であっちが9号棟でと近所だったんですよ。そこからの付き合いです。篤史も小学校から中学までずっとサッカー部で、「キャプテン翼」でいう「石崎君」タイプのプレーヤーでしたね。

低学年のときはそんなに「いじめ」というのはなかったと思うんです。だけど高学年になったころから、急にそういう「いじめ」に近い感じになってました。

「いじめ」って発端になる人がいるじゃないですか。そういう人がサッカー部の中心にいて、篤史のことを「タコ」って言いだしたんです。それが次第に周りに伝染し始めてヒートアップしていって「いじめ」が始まった感じでしたね。篤史のことをいじめてた人たちは、サッカーがうまい人もいればそうじゃない人もいました。

殴る蹴るという暴力の「いじめ」じゃなくて、イジワルをするとかそういう部類の「いじめ」でした。たとえば遠征に行くとき、篤史だけ置き去りにしたりとか、荷物をどこかに隠すとか、少しずつですけどそういう感じのことをされてました。

だからやってる人たちは「からかい」くらいのイメージで、遊びの一部としてやってたんじゃないでしょうかね。だけどやられてるほうはイヤだったと思います。

僕は「いじめ」という感覚で見てなかったんですよ。冗談半分でやってたから「いじめ」だとは分かんなかったんです。僕はマイペースで、どちらとも仲良く付き合ってたから。

だから僕が「篤史がいじめられてるから、そこに割って入る」というのは全然なかったですね。庇おうというんじゃなくて、それまでどおり普通に接していた感じです。一緒にサッカーしてましたし、お互いの住んでるところの間に芝生広場みたいのがあって、そこで野球やサッカーやったり、あとはお互いの家に遊びに行ったりして遊んでたんです。

僕は4年生のころに引っ越したんですけど、学校はそのまま通ったんですよ。引っ越したあとも篤史とはお互いの家を行き来する関係は続いていました。
僕は電車通学で、小学校のころって電車に乗るって感覚はもう旅行じゃないんですか。そういう気分を味わいたくて篤史は来てたんだと思います。

何か相談されたりとか、そういうのは全くなくて普通に付き合ってただけです。お互いの家に泊まりに行ったりそういう家族ぐるみの付き合いで、うちのおふくろも篤史には厳しかったですし。そういう関係はずっと続いてましたね。

中学になったら「いじめ」はなくなったと思います。違う学区の生徒が入ってくるじゃないですか。その中の篤史と仲良くなった1人に背が大きくて体格のいい人がいて、そういうのを見て収まったんじゃないかと思いますね。

篤史は中学2年生のとき、サッカーを続けながら格闘技も始めるんですけど、そこからはスパッと何にもなくなりましたね。篤史の「強くなってる」という噂が、いじめてた人たちの耳に入ったんだと思います。篤史はサッカーをやって、夜は格闘技のジムに行ってという二刀流で、本当に自分に厳しくやってたんで。

篤史が「僕が庇ってる」と言ってくれてるのは耳にはしてましたけど、自分はそういうつもりは全然なくて、普通に幼なじみの友だちとしてずっと、本当にずっと遊んでたという感じです。

今思えば篤史はすごく悩んでたと思うんですね。あのころの自分に何かできたことがあるだろうかと考えます。

よく考えると、自分も何かされてるところを見てたんで、篤史は普通にしてましたけど、僕が止めるなり、そういう勇気が必要だったと思います。小学校のとき「いじめ」は続いてたんで、そこの考えが足りなかったと思います。

ちょっとからかわれてるぐらいの感覚で見てたところもあったんですけど、そこはやっぱり勇気を持って止めることもできたと思うので。今振り返ると、それを止めちゃうともしかしたら自分もちょっかいを出されると思って、少しためらったところもあったんじゃないかと考えられますね。

もし篤史が「いじめられてるんだ」と言ってたらまた状況は違ったと思うんです。けれど本人の性格が小さいころから本当に負けずぎらいだったから言えなかったんじゃないかと思うんです。自分の弱味を見せたくないという感じで。そういうので自分が強くなっていろんな人を黙らせたいとキックボクシングをやり始めたんじゃないかとうっすら思います。

篤史は習志野の定時制高校に行って、途中で辞めてタイに行ったので、いつも会うような関係ではなくなりましたけど、頼まれごとはしてたんですよ。

アイツ、マンガが好きで、家に「ドカベン」とかずらっとあるんですよ。だから家に遊びに行って別に会話するわけでもなくマンガを読んで、しばらくして「じゃ、帰るわ」っつって家に戻ったりしてましたからね。

篤史は少年サンデーと少年チャンピオンを毎週読んでたので、タイに行くとき「買っておいて」と言われて毎週買ってました。それが貯まるんで、僕もサンデーとチャンピオンの愛読者になっちゃって。

そこからタイでいろいろ苦労して、そこからキックボクシングの日本人の第一人者になりましたからね。だから僕は試合会場の後楽園ホールに行って、篤史がリングに立ってるのを見るとすごく勇気をもらいましたし、お互いすごく刺激し合った仲でしたね。大人になっても篤史と僕と前田の3人の付き合いは続いてます。今もたまに連絡が来ますよ。

 

■アントラーズでは本田さんと秋田さんが「絶対」

人間関係で言えば、サッカークラブも独特だと思います。僕は社会人サッカーのフジタに入り、そのサッカー部が湘南ベルマーレになってJリーグに入って、鹿島アントラーズに移籍しましたけど、どれも違ってましたね。

まずフジタの人間関係としては体育会系のノリで、きちんとした先輩後輩がありました。やっぱり上の人はそういう時代を生きてきたんで、たとえば僕が入ってきたとき、先輩には森正明さん、池内豊さんがいて、そういう人たちは、上司までとは言わないですけど先輩としてしか考えられない雲の上の存在みたいな人でした。チームメイトでしたけど話かけづらかったですね。

だから野口幸司さん、名塚善寛さんとか、そういう年の近い先輩と一緒にいることが多かったかな。今みたいに、先輩に向かって「君」付けで言える時代じゃなかったですね。怖かったですからね。

先輩が飲みに連れて行くとか、そういう付き合いもありませんでした。サッカー部で集まると言っても、歳の近い人たちだけの集まりという感じで、しかもたまにしか行ってなかったですね。

それがベルマーレになって雰囲気ががらりと変わりまくりました。年上の人たちが徐々に抜けてって世代が変わった、若い世代になったというのもあって。一番上の人とも年の差がなかったんで、より仲間というか、そういう感じのチームになって、いい関係性しかなかったですね。

ただ、そのころでもまだ「さん」付けでした。僕が20代半ばになってくると、下の選手は、高体連じゃなくてユースから上がってきた選手が増えてきて、だんだん「ナラ君」とか、そういう呼ばれ方が増えてきましたね。

僕は全然気にならなかったですね。上下関係のノリって苦手だったんで。たとえば高校のときも、下級生が先輩から呼ばれて「説教」なんかあったじゃないすか。ホントそういうのイヤだったんで、僕が高校3年生になったときに完全に止めましたし、「君」付けも僕はすんなり受け取れました。

あのときは年下の選手にヒデ(中田英寿)やテル(岩本輝雄)がいましたけど、呼び捨てで指示されても受け入れました。もう少し下の選手にも「ナラ君」と言われてましたけど、別にそれは気にしなかったですね。

 

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