バイト生活のアマチュアからJリーグ王者へ……異色のGK・朴一圭はなぜ這い上がることができたのか?【サッカー、ときどきごはん】
シーズン途中で横浜から鳥栖にGKが移籍した
そのGKはたちまち鳥栖の主柱の1つとなった
1995年に松永成立が通ったその道を
松永が指導した選手も2020年に歩んでいるフィールドプレーヤー並みの運動量を誇るGKは
やってくるなりたちまち欠かせない選手となった
その独特のスタイルを形成したのはどんな経験だったのか
朴一圭に自分の半生とオススメのレストランを聞いた
■JFLのレベルについていけず自ら地域リーグへ
これまでの人生の中で苦しかった時期が2回あるんですよ。
1回目は、朝鮮大学校を卒業した1年目の2012年です。その当時JFLだった藤枝MYFCに加入したんですけど、その時代はとても苦しかったですね。
もう1回は、2013年に社会人リーグで1年間やらせていただいたんですけど、そのときです。この2回は、自分の人生をサッカー人生語る上で両方ともすごく大切な年でした。
大学を卒業する前にJ2の4クラブに練習参加させてもらったんです。けれどすべて契約できなくて、JFLのチームは最終選考まで残ったんですけどもダメになってしまい、他にもいくつか地域リーグのチームに行かせていただいたんですけど、ことごとく受からなくて。それで最後の最後、大学の1学年上の先輩が所属してた藤枝MYFCを受けたんです。
ちょうどGKを探してるということで「練習参加してOKだよ」って声かけてもらったんですけど、決まったのが1月の2週目というチーム始動の直前で、本当に滑り込みでした。今考えると、多分GKの人数が足りなかったからじゃないかと思うんですよ。実力を評価されたり、何かを認められて入団できたかというと、そうじゃなかったと思いますね。
当時、今、日本代表のコーチをなさってる斉藤俊秀さんが選手兼監督でしたね。
入団してすぐ、ものすごく苦しくなりました。理由はやっぱり大学との違いですね。大学では2年生のときから試合に出してもらってて、その当時の朝鮮大学校は関東2部だったし、そういうレベルではやれてたんですよ。自分もそこそこ自信はあって、いろいろなJクラブの練習に行って結構手応えはあったんです。
だからJFLならやれるだろうという感覚で入ったんですけど、全然やれませんでした。「こんなにサッカーって違うんだ」って。大学生のサッカーと、これからプロを目指していく、もしくは本当のプロフェッショナルの意識を持っている選手のサッカーは、同じ競技なんだろうかというぐらい違いましたね。それで全然ついていけなくて、練習行くのイヤだ、朝を迎えたくないという軽い鬱みたいになってしまって。
確かに求められてたことの水準は高かったと思うんです。斉藤さんに呼ばれてチームに入っていた元Jリーガーの方のレベルはとても高かったし、要求されることも厳しくて。斉藤さんは現役時代に川口能活さんと一緒にプレーしてらっしゃったじゃないですか。だから能活さんを基準にして僕にも求めてくれたんです。
だけど言われてる僕のほうが何を言われてるのか分からなくて。自分は聞き分けがいいほうだと思ってたし、言われたことは何でも対応できるという自信があったんですけど、まだまだ技術的にも不足してましたし、メンタル的なコントロールも不足してたので、言われてることに全然ついていけなくて。
斉藤さんたちは僕を成長させるために言ってくださってたんですが、僕はまだ受け入れられる器が出来上がってなくて。22歳ってもう大人じゃないですか。それなのに悪いプレーをして厳しく指摘されるのがイヤで、サッカーが嫌いになってしまってました。
大好きなサッカーをやりに来たのに自分は何をやってるんだろうって。思うようにプレーもできないし、自分の意思表示もできないし、何もかもがイヤになっちゃって、サッカーに向き合えてなかったところがすごく苦しかったですね。サッカーが好きでいろいろなチームを探してやっと拾ってもらったのに、いざやってみたら全然自分が思い描いてたものと違ったというところも含めて。
ただ、憂鬱な気持ちだったんですが、表に出しちゃダメだとは思っていて。だってみんなには関係ないじゃないですか。ケガをしてても試合のピッチに出たら痛々しい姿を見せちゃいけないのと同じで。それで精神的に苦しくても、ピッチに出たら戦わなきゃダメだと思ってましたし、居残りでボールを蹴ったりしてました。
1年終わったところで契約延長の話もいただいてたんですけど、自分から「もうちょっとキツイです」という話をして辞めさせてもらいました。精神的にやられてて「ここではサッカーが続けられない」「今の自分はJFLのレベルの選手じゃないというのを1回受け止めなければいけない」と思って。それで2013年は地域リーグのFCコリアに行ったんです。
FCコリアは2012年、第48回全国社会人サッカー選手権大会で優勝してましたし、第36回全国地域サッカーリーグ決勝大会に出ていたチームなので、そこで頑張ったらまたJFLに上がれるかもしれないと思って、頭を下げてお願いして入れてもらいました。それで、言い方は悪いかもしれないんですけど、「楽しくサッカーが出来る環境」に身を置くことが出来たんですよ。
だけど、その年というのが、僕がこれまでに経験した最も苦しい時期の2回目になったんです。
当時の自分は「サッカーは楽しい」という気持ちを呼び起こさなければいけないと思ってたんです。そして1カ月ぐらいしたら楽しくなってきました。やっぱりカテゴリーを下げたら自分のプレーが余裕で通用したんです。そこでの苦しさは全くありませんでした。
ただ、自分でカテゴリーを下げてしまったんですけど、やっぱりJFL、そしてJリーグでプレーするということは諦めてなかったんです。そしてここから這い上がっていくためのロードマップを考えたときに、自分が今何をしなければいけないのかが分からなかったんです。
JFLにもう1回戻るためには何が必要で、何をもっと鍛えていかなきゃいけないのかが整理できなかったんですね。それはなぜかというと、しなければいけないことがありすぎたから。
もっと体を鍛えなきゃいけないし、技術的にもシュートストップやキャッチング、キックの練習をしなきゃいけない。もっとこだわって生活しなきダメだとか、そういうところを全部直さなきゃダメなんだろうと思ってたんですけども、どこまで直せばいいのかっていうのが分からなかったんですよね。可視化できなくて。
どうやって上のカテゴリーの人に認めてもらえるようなトレーニングをしなきゃいけないのか、常に考えて1年間やってたんです。結局答えは出なかったんですけど、とにかくやれることは全部やりました。
あのころの生活は、朝早く起きてまず「ドトールコーヒー」でアルバイトして、11時になったら朝鮮大学に行ってコーチをやらせてもらうんです。コーチと言えども自分のトレーニングも兼ねていて、それが15時から17時半ぐらいまでですね。それが終わったら今度はFCコリアが東京朝鮮高校で練習しているので移動して、19時から今度は自分のチームのトレーニングでした。
大学生とトレーニングして、自分のチームでトレーニングして、毎日ほぼ2部練習をしてたんですよ。量をこなすしかないと思って自分の体にムチ打って。だけどその量をこなしながら、「これだけ練習しているけど自分は上に行けるのか」って常に疑心暗鬼で、答えが出なかったんです。いいプレーができたにしても「地域リーグのこの結果で満足してていいのか」とか、そういうことばっかり考えてるんです。それが本当に苦しくて。
あの1年間をもう1回やれと言われても、もう2度とできないですね。他のことすべてを犠牲にしてサッカーをやった年だったんで。あれほど覚悟を決めてた年は今までまだないです。これから先サッカーができるかどうかという瀬戸際に立ってました。
■J3からJ1へのステップアップ、移籍1年目で優勝
FCコリアで1年プレーして、少し自信ができたときにJ3に上がることになった藤枝がGKを募集してるという話を小耳に挟んだんです。それで斉藤さんに直接連絡して「もう一度チャレンジさせてください」とお願いしたんですよ。
斉藤さんは藤枝時代の僕が腐らずにトレーニングしていた姿を見て評価してくださっていたんですけど、「申し訳ない。僕はもう退任するから権限がないんだよ」って。だけど「気持ちは分かったから後任に繋ぐので頑張ってくれ」と言っていただいて、藤枝に練習参加させてもらえることになりました。
それで2週間練習させてもらって、再入団させてもらえることになりました。戻ってプレーしてみたら、正直、いい感じでプレーできたんです。やっぱりあれだけ練習すれば力は付くんだと思いましたし、それ以上にメンタルが強くなってましたね。
目標に向かって頑張って、いろんなものを犠牲にしながら「プロになりたい」「サッカーで飯を食っていきたい」っていう強い気持ちを持ってやることで外部の声も自然と気にしなくなりましたし。
J3には経験ある選手もいるんですけど、その中でも自分の意見をちゃんと言えるようになったし、自分が生きていくために、ここは聞かなきゃダメだけどここは通さなきゃダメという視野の広さも身に付いてました。自分が伝えなきゃダメなところはちゃんと話すという勇気も出たんですよ。プレー面だけじゃなくて人としての成長がすごく大きくて、その人としての成長がプレーに繋がったと思えましたね。
藤枝で2年プレーしたところで、J3にいたFC琉球の監督に就任された金鍾成さんから誘っていただいたんです。僕の高校、大学時代に監督をなさっていたんで僕のパーソナリティやどういうプレーヤーか知っていただいてました。
それで2016年に琉球に移籍することになりました。そのとき沖縄に初めて行ったんですよ。自分の中では沖縄って観光で行くところというイメージが強かったから、ちょっとウキウキしてたんですよね。「沖縄で生活するってなんか楽しいな」みたいな。
金監督はすごく信念を持っている方で、「ボールを大切にしながらゴールを目指していく」というサッカーを貫いてました。それでやりがいはあったんですけど、その年は前年度の所属選手が19人辞めた年で、どうマネージメントをして、どういうふうに選手たちを引き上げていくか大変だったと思います。
うまい選手を集めて自分のやりたいサッカーをやれるという環境ではなかったですからね。大学生や社会人の中から原石を引っ張ってきて、使って育てていきながら、1つのチームにしてタイトルを取っていくっていうビジョンだったと思うんです。
そんな状況だったから2016年はすごく大変なことが多かったですね。チーム作りってまず理想から入るじゃないですか。今いるサガン鳥栖もそうなんですけど、繋ぐサッカーってやることがたくさんあるし、やらなきゃいけないこともたくさんあるし、その整理をするんですけど、やっぱりグレーゾーンも多いんですよね。
どんなときに繋いで、どんなときは危険を回避したほうがいいのか最初は整理できてなかったんです。それでも監督は辛抱強くやってくれて、監督が求めることをすべてはできないというのは分かっていても、自分たちにリスペクトの気持ちを持って接してくれて。押し付けるのではなくて、ちゃんと自分たちで考えて答えが出せるような、そういう環境を作ってくれてました。
それに能力のある選手が多かったんですよ。若くて、がむしゃらに走れる選手が多かったんです。大学からの新卒も、J2には行けなかったけど、行っててもおかしくないようなレベルの選手たちが入ってきてくれてました。
若い、エネルギッシュな選手がたくさんいて、最初の1年間はうまくできなかったにしても、次に繋がる年になったというのはみんな実感してました。だから2017年は昇格できそうだと思ってましたね。ただ、自分も気合が入りすぎてケガからシーズンが始まってしまって、みんなもリキんでしまってうまくいかなかったという感じでした。
2018年は播戸竜二さんの加入が一番大きかったですね。金監督のやりたいサッカーに最後の大事なピースが来たと思います。播戸さんは経験値や精神的なところがすごくて、僕も含めて若い選手にどういうふうな立ち居振る舞いをしなければいけないのかという点を教えてくださいましたね。
そして監督も判断するけれども、ピッチの中では選手が自己判断していかなきゃダメなんだというのも話してくれたんですよね。そういうのが全部合わさって、結局その年は圧勝して、ホーム全勝で優勝してJ2昇格を勝ち取って、金監督のビジョンはちゃんと成り立ったんです。
それでJ2に昇格することになったら、2019年に横浜F・マリノスから話が来たんです。噂があるって聞かされたときは「また誰かが適当にいってるヤツでしょ」と思ってたんですよね。そうしたら本当にオファーが届いてしまって。ホント、信じられなかったですよ。そして「これは一大事」だと。
ただ迷いはありました。自分はコンスタントに試合に出て、トライアンドエラーをしながら一歩一歩階段を上がってきてたんで、マリノスに行って本当に試合に出られるかなって。
琉球では試合に出てましたし、一応キャプテンもやってたんで、チームに残ればたぶん開幕戦から出てJ2で経験を積めると思ってたんです。保証みたいなものが担保されてるけど、それを捨てて移籍、しかも2ステップ上がってJ1の舞台で、さらに飯倉大樹さんというすごいGKがいるチームに行って、もし控え選手で終わってしまったら今まで積み上げてきた試合勘がなくなってしまうっていう恐怖心がありました。
もちろんマリノスのようなビッグクラブに行くのは選手にとってステータスだと思うんです。けれど自分は「試合に出てないと意味ない」と常々思ってるんですよ。やっぱり試合に出てないと自分の価値や注目度は上がらないですし、J2やJ3でも試合に出場してるほうが選手の価値は高いと考えてるんですよね。
ただ、そのとき1つだけ、自分に対する世間の評価で納得してないことがあったんです。それはペナルティエリアから飛び出したり、ビルドアップに参加したりというのは「J3だからできてる」と言われてたことで。
「J3のプレッシャーだからやれてる」という話を、外部の人からちょくちょく陰で言われてて、それに腹を立ててたというか、「自分は認められてない」と感じてたんですよね。
でもそのスタイルをアンジェ・ポステコグルー監督が認めてくれたし、「もしJ1のアンジェさんのサッカーで結果を出したら、『J3だからやれてる』と言っていた人たちも自分のことを認めざるを得ないだろう」と思ったら、やっぱりチャレンジするしかなくて。
自分はどこに行っても飛び出したりボールを呼び込んだりというプレーをやってきたいので、自分をもっと認めてもらいたい、認めさせたい、だったらここは当たって砕けろ、失うものはないって。
せっかくこんなに素晴らしいチャレンジできる機会があるし、しかも飯倉さんはそういうGKの先駆者だったので「どういう信念でリスクがあることをやり続けているのか、何が突き動かしているのか」を、一緒にプレーして盗みたくなってしまったんです。
最後はそういう好奇心やワクワクのほうが強くて、マリノスの入団を決意しました。自分のやってきたことが少し認められたのかなっていう、うれしい感じもありましたし。あとは運とタイミングに恵まれて、マリノスでも出場できるようになったという感じです。
僕を使ったときに、起用の理由を聞かれたアンジェさんが、意外なことを仰っていました。
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