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「今日最後だよね」と選手が声をかけてくれた……村上伸次の忘れられない試合【サッカー、ときどきごはん】

 

J1で307試合、J2を196試合、J3は3試合
合計506試合で笛を吹いた
プロとして活動するようになってからは
さらに重い責任がのしかかった

誰にも病気のことを告げずに笛を吹いたのは
奈落に落とされるような経験があったから
今は3級審判員として登録されている
村上伸次に思い出とオススメのレストランを聞いた

 

■病気のことは人に言わないようにしていた

3月末で1級審判員としての活動は終わったんですけど、そこから住んでいる岐阜県で3級審判員の資格を取りまして。練習試合とかでチョロチョロと笛を吹こうかと思ってます。練習試合の場所に行くと知ってる方は「どっかで見たことある」と言ってくる人もいますね。

今、VARの登録はしています。研修会が大体1カ月に1回ぐらいあるので何が起きているか情報は共有して、後輩のレフェリーに運用の仕方を聞いて、いつでも行けるように勉強はしてます。

でも、本当のアクシデントがない限りは、多分試合には行かないんです。もし僕が行くときは、何か緊急事態が起きて救助が必要というときですね。そう言えばJ1でのデビューも緊急事態でした。

2005年4月28日の名古屋グランパスエイト(現・名古屋グランパス)vs東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)は、家本政明さんが主審で、僕は第4の審判員として組ませていただいてたんです。

前半4-2で、名古屋の本田圭佑が初ゴールを決めて、後半は東京Vが盛り返して平本一樹がハットトリックして、最終的には5-4になった試合ですね。

その当時の僕は第4の審判の仕事をしながら主審の方がどういうレフェリングをするか、「いいところは盗もう」「これはまだ自分にはできない」と思いながら審判団に加わっていました。

家本さんは前半、すごいコントロールをして普通に試合も進んでたんですよ。ただ僕は「何か足の調子が悪そうだ」って見てたんです。それで第4の審判の席で準備運動してたら名古屋の運営の方がざわつき始めて「村上さんどうしたんですか」「もしかしたら家本さんはちょっと足の調子が悪いかもしれないですね」という話をしてました。

そうしたらハーフタイムに家本さんが「交代してほしい」とおっしゃって、後半は僕が笛を吹くことになったんです。それがJ1での最初の主審でした。

その当時僕は名古屋の練習試合でたまに吹かせてもらってて、全員じゃないんですけど選手とは顔見知りでした。だから後半ピッチに入るときに「今日、村上さんどうしたの?」なんて声をかけられてたんですよ。それがちょっと裏目に出ました。

僕が入ってからちょっと判定がちょっとぶれ始めて、後半にカードが5枚出るしPKは取るし。しかもそのPKが84分で名古屋は1点差に詰め寄られることになって東京Vは何とかもう1点と勢いを増して。

判定は正しかったんですけど、まだ信頼関係はできてないもんですから、選手としては顔を知ってる審判にやっぱり一言二言言いたくなったんでしょうね。

あの試合はもうほとんど覚えてないですね。試合終了の笛も覚えてないです。とにかく試合を成立させることだけが頭にあって。あとは僕は絶対にケガしちゃダメだという思いが一番強かったですね。もし僕がケガをしたらどちらかの副審が主審をして、僕が無理矢理副審をするしかなかったですから。

その家本さんと同じ日に1級審判員を引退したというのも、ご縁を感じます。彼にはいつも勉強させられました。

彼のほうが歳は下なんですけれど、審判の経験もそうですし、レフェリーとしてすごく嫌な部分も経験してて、その人生の経験にも教わることがすごくたくさんありました。物の考え方とか、人の接し方とか、そういうところがすごく勉強になりましたね。

僕は50歳を過ぎる前にちょっと病気して、そこから「いつ、どう辞めようか」という思いがあって、彼には「もう今年で辞めるんだ」という話をしたんですよ。そしたら「もしかしたら僕も辞めるかもしれない」って言われて「そうなんだ」って。ずっと前から家本さんは、「やってもあと2、3年ぐらいかな」という話を冗談めかして言ってたんで、まさか辞める年が一緒になるとは思わなかったんで、びっくりしましたね。

その病気というのは結構重かったんですよ。49歳だった2019年の1月に「十二指腸穿孔」になったんです。「胃潰瘍(かいよう)」という、胃の粘膜が薄くなってただれるような病気はご存知だと思うんですけど、「穿孔」はそれより重くて、穴が開いちゃうんです。それが胃の先にある十二指腸で起きたんですよ。

忘れもしない1月4日の午前中にトレーニングをして、帰るときに水を飲んだんです。そうしたら胃から「ゴボッ」っと落ちる感じがしたんですよね。最初は痛くなかったんですけど、だんだん痛くなって脂汗が出るくらいになって。後から聞いてみるとその「ゴボッ」は、水が十二指腸から体の中に漏れた感覚ということでした。

不幸中の幸いだったのは、僕そのときちょうど朝ご飯を食べてなかったんです。正月明け、しかも寒いときだったんで、追い込んだり体を作る筋トレではなかったから食事を取ってなかったんですよね。もし食事をしてたら、感染症になって完璧にダメだったんです。

すぐに病院に行って言われたのが「手術をするか、投薬で散らすか」という選択でした。手術をしたら人工肛門になると言われたんで、それでは審判活動ができなくなると思って「手術は絶対やめてくれ」とお願いして、そこからICU(集中治療室)に1週間ぐらい入院しました。

首から心臓まで静脈を伝ってカテーテルを入れて心臓に栄養を直接入れるようにして、鼻から胃までチューブを入れて胃酸を全部出すようにしてました。

ICUではベッドから出られませんでしたね。そのときは「体はまずい状態かも」と思いました。一般病棟に移ってからは2日経ったところで立っていいといわれたんですけど、点滴はずっとしてました。

でもリハビリはしなきゃいけないと思って、鼻にチューブをつけてスクワットとか下半身の筋トレしてたら無茶苦茶怒られました。それでも病院の先生には僕の仕事とか状況を全部話して「リハビリをやらせてくれ」ってゴリ押しして続けてましたね。

結局、一般病棟に2週間ぐらいいてから自宅に戻ったんですけど、ずっと病院食だったので家に戻ったら5、6キロ痩せてました。その年、僕がJ1で最初に笛を吹いたのは2月23日に行われた第2節の川崎フロンターレvsFC東京、多摩川クラシコで、退院はその1カ月ぐらい前でしたね。

実は、この病気のことを審判委員会には内緒にしてたんです。誰にも言いませんでした。言ったら「絶対止めろ」って言われますから。何が何でも担当するぞと思って。言わなかったのはちょっと理由がありまして。

僕は2006年に国際審判員になれるところだったんです。世界で笛吹けるし、楽しみばかりじゃなくて辛いこともいろいろ聞いてたんですけど、「よし、これからもっとがんばろう」と思ってたんですよ。

ところがそのとき、FIFAから「国際審判員には35歳までにならなければいけない」という年齢制限の話が出てきて、国際審判員の登録期限2日前に当時審判委員会の委員長だった松崎康弘さんから「村上、ごめん」って。「実は国際審判員、ダメになったんだよ」って言われたんですよ。

奈落の底に落とされたと思いましたね。でも、日本国内でも審判活動はできると思って、そこでどれだけ試合の笛を吹けるかと考え方をシフトしたんです。ただ僕の中にはそのときの悔しさがずっと残ってて。

だから「体調が本当に無理だったらもう辞めなきゃいけない」とは思ったんですけど、一方で「このくらいだったら何とかなるだろう」と思って。そして病気ということでマイナスに思われるのが嫌で人に言わないようにしたんです。

病気したあとは体が軽くなりましたね(笑)。病院の先生にも言われたんですよ。「審判だから穴開いたんだ」「ストレス溜めないようにね」って。「その病気もストレスからなったんだから」って先生も納得していました。

 

 

■トラックに乗りながら1級審判員を目指した日々

突き落とされるというと、現役のときもいきなりチームがなくなってしまったんです。当時西濃運輸という会社のチームでプレーしていたのですが、バブルがはじけて企業スポーツが見直されて、その煽りを受けました。

西濃運輸には社会人野球以外に、サッカー、スケートのショートトラックもありましたし、陸上部もあったんですよ。それが1997年末に野球だけを残して他は解散になったんです。会社のチームだから経営状態でしょうがないというのはあるんですけど、そのころサッカーは右肩上がりだったんでそこはある意味、本当がっかりしたっていうか。

1997年の開幕前に今年でサッカー部がなくなるという話があったんです。それでそのシーズン指導者への道とか、他のチームでプレーする道とかいろんなことを考えました。その中で、サッカーの審判というのが一つの選択肢として出てきたんです。

大学時代に4級審判員の資格は取ってましたが、それは1年生のとき、「試合に出ないんだから1回講習会に行ってこい」と言われて取っただけですね。大学のトップチームは審判資格を有するスタッフを帯同しなければならない規定になってるから取っただけですね。

それなのになぜ審判を選んだかは、体は動くし、フィールドに立てるからですね。それにサッカーでも審判ってある意味特殊な世界というのを分かってたんですよ。そこに僕が入ることで、そのサッカーの知見というのが広がるという思いはあったんです。

あともう一つ、やっぱりJリーグのピッチに立ちたいっていうのはありましたよね。選手としての道は断たれたんですけど、審判だったらいけるんちゃうかな、と思って。スッゴイ浅はかな考えだったんですけど。でもそれで岐阜県の当時の審判委員長に「審判をやりたい」とお願いをしてやらせてもらうことになりました。

会社にはそのまま勤めていて、社内のサッカー部OBの方には何かと助けていただいてました。その方は理解があって、たとえば土日、県や東海地域で試合があるときは「行ってもいいよ」と言ってくださいましたね。

それから僕が会社にお願いしたのは、西濃運輸って運送会社なんで、「トラックに乗せてくれ」ってことでした。事務職だとやっぱり体がなまっちゃうんですよね。選手を辞めたときに5キロぐらい太っちゃってましたし。

これじゃレフェリーできないと思って、トレーニングの一環と言いますか、審判活動しながら5年ぐらい4トントラックに乗って配達集荷をして、休み時間に河川敷を走っていました。

3級審判員の資格はサッカー部がなくなると言われた1997年に取りました。3級から2級は3カ月ぐらいです。9月に3級を取って12月に2級になりましたね。今の制度だとできないと思います。

1級審判員になるとき、フィットネステストは全然問題ありませんでした。走るのは得意だったので全然問題なくて。苦労したのは競技規則で、競技規則の文言ってスッゴイややこしいじゃないですか。あれに慣れるのにすごい時間がかかりましたね。

体と頭では分かってるんだけど、テストでちゃんとした文言で書けるかどうかが難しかったですね。しかも競技規則って毎年変わっていくから、一年ごとに古いやつは全部頭の中から捨てるんですよ。そうしないと混同しちゃうから。

PKを蹴る前に他の選手がペナルティエリアに入った場合は警告になるというルールが翌年にはなくなったりとか。オフサイドもプレーの方向が関係して、ちゃんと向いてプレーしているのかどうかで決まるとか。「あれ、これは去年の基準なのかな、今年かな」って悩んじゃうんで、全部頭から消去するようにしてるんです。

それで結局1級審判員になるには4年かかりましたね。1998年から2級、2002年に1級、そして2008年にプロフェッショナルレフェリーになりました。国際審判員になれなくて1年経ってからプロになったんです。

それまでプロフェッショナルレフェリーはみんな国際審判員だったんですよ。それを打ち破って、ドメスティック(国内)のレフェリーとしてプロになれました。国際審判員になれなかったみんなの想いが僕の中にありましたし、糧になりました。

国内でしか活動できないし、僕はあんまり喋るとか講義をするとか苦手なんですけど、でも僕の背中を見てやってくれるレフェリーがいればいいという思いで、ずっと国内1級のプロフェッショナルレフェリーでやってきたんです。

こんなこと僕が言うとちょっと語弊があるかもしれないんですけど、やっぱりみんなから「この人はもうプロフェッショナルレフェリーになっても問題ないね」という見られ方をする人が、プロのレフェリーになるのに必要なんじゃないかと思ってます。

最初は50歳までプロフェッショナルレフェリーをやるという目標だったんですよ。それは達成できてすごくうれしかったですけど、でも50歳を前に病気をして、何かキリのいい数字ないかと思ったときに、J1通算300試合、Jリーグ通算500試合に手が届きそうだったんです。

だったらそこまではがんばろうという思いでやって、それを達成できた充実感はすごくあります。そこまでいくのにいろいろ大変??と言ったらおかしいですけど、いろんな人に支えられて、ここまでできたっていうのは紛れもない事実なので、お世話になった方々には感謝したいと思います。

 

■試合後、両チームの選手が花道を作ってくれた

忘れられない試合は2つあります。まずプロフェッショナルレフェリー最後の試合となった2021年12月4日の名古屋グランパスvs浦和レッズですね。その試合はAVARの担当だった野田祐樹レフェリーにとっても最後の試合でした。

 

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