レジェンドが「中」から見た歴史のリアル……鳥栖の高橋義希が語るJ2そしてJ1の道【サッカー、ときどきごはん】
無尽蔵とも言えるスタミナでサガン鳥栖らしさを体現し続けてきた「鳥栖のレジェンド」高橋義希。18年間、最後まで走りきることができたのは、指導者やチームメイトから人として大事な何かをしっかり学び取ってきたからかもしれない。苦しんだ末、新たな一歩を踏み出した彼の足跡をたどる。
■自分はまだできる……きつかった現役最後の2年
やっぱり最後の2年ぐらいはきつかったかな。試合に出られなくなりましたしね。最後の2年ぐらいは引退も意識しつつという感じでした。
もちろんベテランというのとサガン鳥栖への思いから、試合に出られない中でもクラブにプラスになるような行動をしたいと思ってました。試合に出ることを一番の目標には置いてるんですけど、それ以外のところでクラブのために何が必要かって常に考えながらやってたんです。
それでもサッカー選手である以上、試合に出られないもどかしさっていうのはすごい強かったですし、まだできるという思いも強かったので……苦しかったですね。それまでは鳥栖でずっと出続けていましたから。
僕は2004年、高校を卒業して鳥栖に来たんです。高校時代に松本育夫さんに誘われたんですよ。松本さんはライバル校の監督で、それまで話したこともなかったんですが、全国高校サッカー選手権大会の予選が終わったその夜に声をかけてもらいました。
松本さんがうちの高校の泊まってるホテルにいらして、部屋の一室でうちの監督と僕と3人で話をしたんです。何と言われたかは覚えてないんですけど、「来年、自分は鳥栖に行くから来るなら来ていいぞ」という感じでしたかね(笑)。早い段階でオファーをいただいたので、その後Jクラブ以外のところからのお誘いはあったんですが鳥栖一択でした。
■ずっと信じてくれた……尹晶煥という存在の大きさ
2003年の鳥栖はJ2リーグで年間3勝、12チーム中12位と苦しんでました。ただ、最下位のチームとはいえどもレベルが高くて何とかついていかなきゃいけないという一心でした。がむしゃらに誰よりも練習したと思います。
松本監督の練習は厳しかったですね。非科学的なメニューも結構やりましたから。でもそれで気持ちの部分は強くなったと思います。松本監督の指導のおかげで僕はここまでこられましたし、最初の、特にプロ3、4年目ぐらいまでの教えは今でも大切にしている部分ではあります。
松本監督と次の岸野靖之監督もそうだったんですけど、まず「人としてどう行動するか」を大切にするところが始まりでした。それからピッチ内でも、当たり前のことですけど、たとえば走るメニューだったら、コーンの外側を走って少しでも長い距離を走る、マーカーの手前でスピードを落とすんじゃなくて最後まで走り切るというところですね。
それまでそういう当たり前のことができてなかった部分があったので、改めてプロでもしっかりやらなきゃいけないということを教わって、それが今の「鳥栖らしさ」につながってると思いますね。最後まで走り切る、あと一歩、最後の一歩まで手を抜かないとか。
それから松本監督がよく言ってたのは、「プロはただサッカーをしてるだけじゃない。いろんな方々のサポートがあってサッカーができているんだ」という、「プロとはなんぞや」ということでしたね。その言葉は今でも心の中にしっかり残って響いてます。それが「サポーターのために」「クラブのために」というところにつながってると思います。
入った2004年は11位でしたけど、2005年は8位、2006年は4位まで上がって、J1までもう少しっていうところまで見えて、結構手応えありました。2005年からチームの運営が変わって経営自体が安定したというのも大きかったと思います。
特に2006年はかなり手応えありましたね。すごい魅力的なサッカーをやれたと思います。特に現役だった尹晶煥(ユン・ジョンファン)さんの存在が大きかったですね。
2006年はその尹さんと2人でボランチをやって、それからキャプテンを任されて。どっちも苦しかったですけど尹さんが本当に僕を信じてくれていて、ずっと励ましてくれました。僕が20歳の時にチームを引っ張れたかというと、そうじゃなかったので、とにかく先頭に立ってやらなきゃという思いで積極的にやってました。
■最初の半年は苦しかった……移籍先の仙台で訪れた試練
そして2007年から岸野監督になって、一度順位が落ちて8位になるんですけど、2008年は6位と浮上して。2008年は始動日に監督からいきなり「10番を付けろ」と言われたんですよ。「いや無理です」って言ったんですけど、押し切られて。それで10番を着ることになったんですけど、もともと僕の練習着じゃなかったんでブカブカでした。
キャプテンとしてJリーグ開幕前のお披露目でもある「キックオフ・カンファレンス」に出たんですけど、ああいう場に行くのって緊張しますね。知り合いもいませんし。J1同士の方々は話したりしてましたけど、アウェイに飛び込んでいってる感覚でした。
それで1年間10番を着たんですけど、やっぱり14番が大好きだったんで戻してもらったんです。14番は僕の誕生日が5月14日なんでそこからだったんですけど、結婚記念日も14日だったり、娘や一番下の息子の誕生日が14日なんで、縁がある数字だと思ってずっとつけてました。
2009年は5位とまた上がってきて、本当にJ1が見えてきてました。すごいまとまりのあるチームでしたし、「鳥栖らしさ」が全開で出たチームだったと思います。
その2009年シーズンが終わったタイミングでベガルタ仙台から誘ってもらいました。大好きな鳥栖でずっとやりたいという思いはあったんですけど、J1でやってみたいと思ってサッカー選手としてチャレンジを選びました。
でも仙台に移籍した2010年は自分を出すのに半年ぐらいかかってしまいましたね。やっぱりいつまでたっても性格って変わらないなってつくづく思わされたのが仙台移籍1年目でした。
僕は元々人見知りするタイプですけど、「もう大人なので大丈夫」と思ってたんです。けどダメでした。それがサッカーに出なければよかったですけど、サッカーにも出てしまって。だから最初の半年は苦しかったですね。
そこを乗り越えてからは徐々に自分のプレーが出来るようになってきて、それからやっとスタートできたと思います。
2年目は東日本大震災が発生し、本当に苦しんでる人たちが近くにいましたし、仙台のスタッフの中でも家が流されちゃった人もいたんで、本当に、サッカーとかっていうよりも、何か難しい年ではありました。
その中でも「自分たちはサッカーで盛り上げるんだ」と。手倉森誠監督が常に「東北の希望の星になるんだ。希望の光になるんだ」と言ってたので、そこで一つにまとまって震災の年と次の年と仙台は結果を出せたんだと思います。
仙台の人は僕を温かく迎えてくれました。鳥栖に帰ってきてからも仙台で応援してくれた方が鳥栖まで足を運んでくれたりということもすごく多かったので、それはありがたかったですね。
■J1に上がったから鳥栖に戻ってきた……ネガティブな見方にくくった腹
それで2年経った2012年に、J1に昇格した鳥栖からオファーが来て戻ることになりました。鳥栖は初めてのJ1だったんで「降格候補」という厳しい声もあるだろうと思いました。それに見え方によっては、「J1に上がったから都合よく帰ってくる」と思われるだろうと思って正直悩みました。
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