「今日の試合どうでした?」と聞くだけなら存在意義はない……ピッチリポーター高木聖佳が泣きながらスタジアムに行った日【サッカー、ときどきごはん】
Jリーグを代表するピッチリポーターとして、監督や選手からの信頼も厚い高木聖佳。彼女が支持される理由は決してその明るいキャラクターだけにあるわけではない。彼女はどう選手や監督の声を伝えてきたのか。そのキャリアを振り返ってもらった。
■泣きながらスタジアムに……あの経験があったから仕事を長く続けられた
1999年に初めてピッチリポートをして、それから今まで続けられたのは……周りの人のおかげがすごく大きいと思います。私がサッカーにかけてきたのをちゃんと見ていてくださったんだって。
Jリーグ中継が「スカパー!」からDAZNに変わるとき、Jリーグの方がDAZNに「『スカパー!』時代の実況、解説、ピッチリポーターの仕事の場所をなくさないようにしてあげてほしい」ということを言ってくれたみたいなんです。私はそれがとてもうれしかったんですよ。Jリーグが同じファミリーとしてサッカーに携わってきた人たちのことを扱ってくれたと思って。
2003年にJリーグオフィシャルファンサイトの「J’s GOAL」が出来たときも同じような話を聞きました。当時Jリーグ映像の小西孝生社長がおっしゃったんです。「サッカーのライターとして生きている人たちが日本中にいるから、その人たちが生きていけるように、できればサッカーだけで暮らしていけるように、定期的な仕事をあげられる場を作ってあげたい」って。
周りに理解者がいたり、ずっと私を使い続けてくれた人たちがいらしたりというのもあるのですが、Jリーグそのものにサッカーファミリーを大事にするという土壌があったのが長く続けられた理由なんだと思います。
これが局から雇われただけでJリーグと深く関わってない人だったら、局はどんどん人を代えていくんですよ。特に女性は。でもJリーグは「長くサッカーを見ているから」「これだけサッカーを伝えてくれているから」ということも考慮して、いろいろな公式の場の司会をやらせてくれたりするんですよね。
それにJリーグはファンの人が温かいんです。声だけの出演だったときでも私と分かってTwitterでメッセージくださったりするんですよね。そうやってファンの方にも支えられてきました。
それから、長く続けられたのにはサッカーに感謝してる思い出があるからなんです。私は元々、仕事としてちょっとピッチリポーターをやってみたかっただけだったんですよ。だけどあるとき気付いたんです。
私は2005年に父親を亡くしました。でもお葬式の翌日に実家のある大阪から関東に戻って、埼玉スタジアムのピッチに立つことになってたんですね。準備はほぼできなくて、スタジアムに行く車では泣きながら運転して、「この状態で私は仕事できるのかな?」と思いながらスタジアムに到着して、試合開始までボーッとしてたんです。
でもキックオフのホイッスルが鳴ってゲームが始まったら、夢中でプレーを見てたんです。ゴールシーンでは「わー!」って叫んだりして。あんなに暗かったのにピッチサイドで興奮してて。
その時、「あぁ、大体のことってサッカーを観ている間は忘れられるんだなぁ」って。なんか、とても大きな武器を手に入れたみたいな気持ちになって、そこからさらにサッカーに夢中になったんです。
たぶん私はあの経験があるから、ずっとサッカーの仕事に対してのモチベーションみたいなものが落ちてないんだなと思ってます。
■もっとチヤホヤしてもらえる仕事だと思っていた……
私は大阪で生まれて短大を卒業して、入った会社はすぐに辞めて、何の夢もなく、だらだら生きていました。イベント会場に行ってパンフレットを渡したりするイベントコンパニオンの仕事をしていました。サッカーのルールも知らなかったし、サッカーそのものが別世界の出来事だったんです。
あるとき、たまたま友人にガンバ大阪の試合に誘われて行ったら、偶然イベントでお世話になってた制作会社の人がスタジアムにいらしたんです。
「高木、サッカー好きなのか?」と聞かれて「好きって言ったほうがいいのかな?」と思って「そうなんですよ」と答えたら、「じゃあG大阪のマスコットガールはウチが仕切っているから、オーディション受けてみたら?」ということになり、その翌年の1997年、マスコットガールをやらせてもらったんです。
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