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「楽しんでプレーする」という言葉の重さ……工藤浩平が貫くサッカースタイル【サッカーときどき、ごはん】

いつもひょうひょうと、楽しそうにプレーする姿には、
決して表に出さない、これまで味わった辛さや苦しさが年輪のように確かに刻まれている。
工藤浩平はなぜ楽しむことを曲げないのか。
知られざるプロサッカー選手としての矜持を聞いた。

 

 

■仲が良かった弟……夜中に駆け付けた病院で目にした光景

僕はね、基本ポジティブなんで。辛いってあんまり感じないタイプなんですよ。そうですね……なんだろうな……辛いって言ったら……。

僕がジェフユースに行ってるとき、1歳下に弟がいて。昔から練習で一緒に切磋琢磨して、ジェフでもサッカーしてたんですけど、その弟が亡くなったときは辛かったですね。交通事故でした。僕が高校2年生の10月です。プロになるために頑張んなきゃいけない時期で。

夜中だったんですよ。僕は寝てて。親が「病院行ってくる」って言って、びっくりして僕もあとから駆けつけたんです。病院着いたとき、父や母を見たら「あ、ヤバいのかな」って顔をしてたんで。ちょっと怖かったですね。交通事故だったけど頭を打って、全然キレイなんですよ。それも何か覚えてて。

暗い話になって……。あ、大丈夫ですよ。

人間すごいもんで、そのときのことってあんまり覚えてないんですよ。ただ、辛いという思い出と、サッカーについて考えたことと、そのぶんも楽しんで……楽しむというか……というのは思いましたね。

そこは……なんですかね。サッカー頑張ろうと思ったきっかけになりましたけどね。プロを意識してたんで真面目にやってなかったわけじゃないけど……。親もやっぱりすごく辛そうだったし、そのときは、何というのかな、自分も辛いけど楽しんでサッカーしなきゃというのを思いました。

それで改めて……「頑張んなきゃ」というよりも、弟の分も楽しんでサッカー続けて、プロになりたいという気持になりました。友達とか先輩も気を遣ってくれたけど、しばらくしてやっぱりサッカーやりたいと思ったし、より楽しんでいこうっていうのは思いましたね。

それがあったから挫けずに来たのかもしれないし。弟とは、ちっちゃいころはケンカばっかりでしたけど、当時は仲良くって。友達みたいな感覚だったんで。2人で悪いことしたりとか。仲良かったんでね……そうですね。

 

■自分のプレースタイルを変えたオシムの指導

2003年、巻誠一郎さんと同期でジェフに入ったんです。それからイビチャ・オシム監督と、息子のアマル・オシムさんの指導も受けました。高卒でチームに入って、監督がイビチャ・オシムさんで良かったと今も率直に思いますね。自分のプレースタイルも変わりましたし。

それまでの自分は、どちらかというと、ボールを受けてから考えていたという感じでした。昔でいう「王様」じゃないですけど、「まずボールを自分に集めてくれ」というタイプでしたね。

それが、自分がボールを受けるというプレーだけじゃなくて、次の人のためにスペースを空けることだったり、チームのためにやらなきゃいけないことをいろいろ教えてもらったんです。言葉で言われたわけじゃないですけど、トレーニングの中で教えてもらったというか。

当時は「考えて走れ」とかいろいろ指導された部分がありましたし、それまでよりもサッカー漬けになったというか。当時、2部練習も当たり前だったし。サッカーのことだけ考えてずっとやってました。「どうすればオシムさんに褒められるか」って当時はみんな思ってプレーしてて。アイデアだったり自分の得意な部分も伸ばしてもらったと思いますね。

それでもイビチャさんのときにはなかなか出番がなくて、アマルさんになってから出番が来て。お父さんのほうでも試合の最後ほうで、羽生さんと代わってチョコチョコ出してもらってたんで「やれる」という自信は持ってましたし、ピッチに立ったらやってやろうという感じでした。

イビチャさんが日本代表の監督になってジェフの選手が代表に入っていって、「自分にも(招集が)来い!」と思ってましたけどね。ただ焦りはなくて、もっと頑張ろうとか、チームで結果出さなきゃいけないというのがありました。

そうしたら岡田武史監督から代表に呼ばれたんですよ。「オシムさんのときに呼ばれたんでしょ?」って言われるんですけど、そうじゃないんです。僕の場合は日本代表の試合に出てないし、トレーニングに何回か参加してるくらいですからね。でもいい刺激になりました。代表に行ったとき、岡田監督とはあまり話をしなかったですね。でも大木武さんがその時のコーチだったんで話をしてました。

 

■「ヘラヘラしている」と言われても曲げない信条

基本的にホント、僕はポジティブなんですよ。試合に負けて悔しいとか降格してしまったとかあっても。小さいころからずっとジェフでしたから、J2に落ちたときにチームにいたっていうことはすごくショックでしたし、落としてしまった、自分もその試合に出てたというのはあったんですけど。1年でJ1に上がれずに、いろんな関係で移籍もして……。それも辛いというか、悔しい思いはその当時はありましたけどね。

まず千葉から移籍して出るって思ってなかったですけど、いざ出たらそこで頑張んなきゃいけないから。それで2011年にJ2の京都に行って、当時監督が大木さんだったんで、大木さんのサッカーも楽しかったし。京都でも10番をつけたんですけど、「認められた」と感じるよりも、そのときもそうなんですけど、楽しんでサッカーできてたかなって。それから大木さんに「あまり(日本代表では)インパクトを残せなかったからなぁ」って言われましたね(笑)。そのとおりです。ホントに。

それで2015年にJ1の広島に移籍したんですよ。京都でJ1にパッと上がれれば良かったんですけど、4年ぐらい苦しんで上がれなくて。その当時、京都で上がりたいという気持ちもありましたけど、年齢的なことも考えて、J1でもう1回勝負したいと思って。それで広島に声かけてもらったときに、「これが最後のチャンスかもしれない」って行ったんです。

 

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