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高校3年生のときから経験してきた試練……阿部勇樹が語るケガと残留争いと五輪とスタジアム【サッカーときどき、ごはん】

11月上旬、4か月ぶりに浦和レッズへの練習に完全合流した阿部勇樹。
度重なるケガや逆境を乗り越えてきた男はいま「背負うものがあることは素晴らしい」と達観した目で語る。
これまでのサッカー人生を振り返ってもらいながら、残り少ない今季にかける思いを聞いた。

 

■今までのサッカー人生で一番辛かったこと

今年のケガは、今まで手術以外でこんなにピッチを離れたことがなかったんで大変でしたけど、やっとプレーできるようになりました。チームは明るくなってますし、チーム状況もいいほうだと思うので、それを続けていければもっとよくなると思っています。

これまでの僕の人生でこれ以上に大変だったことは……何度かありますけどね。若いときはケガも何回もありましたし、その中では辛いと思うこともありましたね。

2001年、アルゼンチンでワールドユース(現・U-20ワールドカップ)があったんですけど、ケガで行けなかったんです。自分にとって「もしかしたら初めて世界大会を経験できるかもしれない」というチャンスだったんですけど、足を骨折してしまいました。

練習中にやってしまったんですよ。1回で折れたというのではなく、痛みがあったんですけど「大丈夫だろう」と思ってプレーを続けてたら、痛さが増したんで検査してもらったんです。そうしたら、右足の脛(すね)の脛骨というところに、疲労骨折というか、線が入ってるのが分かったんです。

他にもそのケガをされた方がいたと聞いてますし、僕が治った後に同じケガをされた方もいるので、珍しいところではないと思うんですけど、僕にとってはその当時の一番大きなケガでした。

ユース代表選考のキャンプにも参加できず、結局メンバーにも入れなかったんで、その時が一番辛かったですね。初めての大きなケガでもありました。

僕にとってワールドユースって「世界大会に出られるかもしれない」という期待もあったし、それに他の国の同世代の選手がどれくらいのレベルで、自分がどれくらい出来るのかというのが手っ取り早く分かる大会じゃないですか。なのですごく楽しみでしたし、何とかそれに選ばれたいと思って頑張ってたので。

ショックでしたけど、ケガの重さや脛という場所も含めて、「しっかり治さなければこの先にまた支障が出るかもしれない。それは嫌だ」と思って、当時のドクターと相談して、じっくり治すことが出来ました。「またやってしまったらどうしよう」という心配をしましたが、そういうことがないように処置していただいたので、それはよかったと思います。

苦しいのは苦しかったですけど、ドクターとトレーナーの方にいろいろ見てもらったので、振り返ったらうまく乗り越えられたと思います。ドクターやトレーナーは、僕が隠れてボールを蹴ろうとしてたのも見張ってくれましたし、そういう方たちがいてくださってたので、辛いという感じも少し明るく乗り越えてこられたかなと思います。

ケガが治って試合に出るまでは、確か3カ月ぐらいだったんで、そう考えると負傷期間としたら短いかもしれないんですけど、今まで大きなケガをしたことがなかったので長く感じましたね。

ワールドユースに出ている選手のことは羨ましかったですね。でも、試合のニュースを見て「みんな頑張ってほしい」と思ってました。昔から知ってるメンバーもいましたし、そういった選手たちが活躍して、向こうで何かきっかけを作ってくれたら僕にも刺激になるし、そう思って応援しました。

 

■ジェフではあまりできない経験をさせてもらった

ケガ以外で辛かったのは、1999年、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)で残留争いしたときですかね。そのときって高校3年生だったんですよ。3バックの左で試合に出てるのに結果を出せずに責任感じてましたし、高校に行きながら残留争いを経験してたので大変でした。

高校に進学するとき、最初は定時制に行って昼間はサッカーに打ち込みたいという希望があったんです。でも両親の反対もありましたし、「勉強もちゃんとやれ」と言われて、高校に行きました。

ただ僕の学校が終わった後にチームの練習をするということで、僕のために練習時間が変わったりしたんで、迷惑をかけてしまってるとも思ってましたし、授業どころじゃないですよ。勉強するより練習しなきゃと思うこともありましたね。学校に行くことが気分転換じゃないですけど、気分を変えてくれたんです。でも「この状況で学校に行っていいのかな」とは思ってました。

そのときは当時のゲルト・エンゲルス監督とニコラエ・ザムフィール監督に救われたと思いますね。僕がうまくパフォーマンスを出せない中でも使っていただいたというのもありますし、僕に何とか自信を持たせようとサポートしてくれました。

当時監督から言われたのは、「下を向くな」ということでしたね。具体的な言葉は覚えてないけど、「失敗やミスがあっても、それを繰り返さないことと、引きずらないことが大切だ」というようなことを言われました。いつもポジティブな声がけをしてくれて、気持ちが前向きになるようにしてくれてたのは覚えてますね。

何とかその気持ちに応えたいと思う中で、最終節のアウェイ・ガンバ大阪に1-0で勝って、得失点差で残留を決めたんですよ。ほぼ無理だと言われた状況での残留だったので、やっぱりうれしかったですね。苦しんだ最後にうれしさがあったので、あのときの経験は忘れられないですね。

今思えばジェフのときにはいい経験をさせてもらったと思います。あまり出来ない経験でしたから貴重でしたね。そして苦しかったときって、僕は支えてくれる方たちに恵まれていたんだと思います。今、この年齢になって周りを見たら、そういう助けてくれる人がずっと多かったと思いますよ。僕も他の人に対してそうなれたらうれしいですけどね。

 

 

■「谷間の世代」と呼ばれても……後悔だけで終わらなかったアテネ五輪

自分にとって初めての世界大会だった2004年アテネ五輪は、やっぱり一つでも多く勝って結果を残したいと思ってましたね。

というのも、僕たちの前の大会は2000年シドニー五輪で、ゴールデンエイジの年代の選手が多くいたんで、次の世代って何かと比べられちゃうじゃないですか。僕たちなんか昔は「谷間の世代」と言われてましたし。

 

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