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結局はグラウンドですよ……曽ヶ端準が考えるGKに必要な経験とは【サッカー、ときどきごはん】

 

いつもは表情をあまり変えない曽ヶ端準が
自分のサッカー人生を振り返るときは
本当に楽しそうに語り出した
その表情はサッカー少年そのものだった

鹿島で数多くのタイトルを獲ったからではない
苦しかった時期を乗り切ったからではない
まだ少年だった曽ヶ端が抱いた夢を
今も実現し続けているからこその満面の笑みだった

 

▼地元のクラブに入り、一歩ずつレギュラーに近づく日々

自分のサッカー人生を振り返ると本当に幸せで。まず地元のこのチームに入れたってことがすごく幸せなことですね。他のチームでも地元でプロになった人ってほとんどいないと思いますし。このチームとの関わりって、それこそ1993年、中学2年生でJリーグが開幕した時の1サポーターから始まってますから。ゴール裏にもいましたし。

昔、道路が開発される前だと、試合の日はうちの家から見えるところを選手バスが通ってたんですよ。それを窓から見て、「お!バス通った、通った」て言ってました。カシマスタジアムのすぐ横が僕が通ってた小学校で、スタジアムの周辺が開発されていくところも見てたんです。

Jリーグが開幕する、アントラーズが参加する、開幕戦がホームってことで街全体がどんどん盛り上がってきて。あの時の盛り上がりは異様でしたよ。相手のグランパスにはゲーリー・リネカーがいましたし。

最初は「本当に成功するのかな?」と半信半疑というか、そういう雰囲気がありましたけど。でも開幕戦の勝利がすごく大きかったですね。ジーコがハットトリックして5-0で、一気に地元が盛り上がりましたし、ファーストステージ優勝しましたし。

その盛り上がりの中にいる1人という感じだったのに、まさか自分がユースに入って、プロになって、自分が見ていたバスに乗るなんて、その時点では全然考えられなかったです。スタジアムのピッチに自分が立つなんて想像も出来なかったですね。

1992年にアントラーズのジュニアユースとユースが出来たんですけど、当時は全然人が集まらなかったんですよ。僕が通ってた鹿島中学校はその周りの4つの小学校が集まる大きな中学校で、当時の街の選抜チームの選手が多く入ってて。

そこ以外の中学のちょっと上手な選手がアントラーズのジュニアユースに入るみたいな感じだったんですよ。それで僕もアントラーズのジュニアユースじゃなくて中学校のサッカー部に入ったんです。

中学時代に僕は運よく茨城県のトレセンや関東の選抜に選ばれたり、U-16日本代表の候補みたいになったりとかしていたんです。そうしたら、地元の選手ということもあり、「アントラーズのユースに入らないか?」と誘ってもらえました。

それで中学3年の途中からユースの練習に行くようになったんです。けど、やっぱり高校3年生と一緒に練習すると、あっちがはるかに上手でした。ユースに入っても、高校1年のときはほとんど試合に出られなくて、出始めたのは高校2年のときからでしたね。

当時、他の高校で言えば同じ歳の南雄太が高校1年生のときに高校選手権で優勝してて、自分とのギャップをすごく感じながら練習してましたね。

高校3年生のときは、学校が終わるとトップの練習に行って、それが終わったらユースのトレーニングに行くような生活でした。そこでもやっぱりプロとの大きなレベルの差を感じてましたし、トップチームに上がると決まってからでも、自分には厳しいと感じながら行ってました。体力の差もあるしキーパーの能力の差もあるし。

プロ1年目は、当時ってサテライトリーグがありましたけど、それにもほとんど出られなかったんですよ。ベンチが続いて。トップの試合があるのは土曜日で、次の日はサテライト。そのサテライトの日はトップが休みで、サテライトの人は休みが月曜日。

僕は土曜日の試合にも絡まない、日曜日はサテライトのベンチなんで、月曜日も練習なんです。一週間ずっと練習。それもあとあと良かったのかもしれないですけど、当時は「休みねぇな」あと思いながらクラブハウスに行ってました。

そうしてたら1999年ナイジェリアでのワールドユース(現U-20ワールドカップ)でバックアップメンバーに選ばれたんです。選ばれたのはいいけど、苦しかったですね。登録メンバーは18人なんですけど19人で行って、僕だけバックアップメンバーですから。

2人の登録キーパーのどっちかがケガしたからってすぐ行ける距離じゃないんで同行しなきゃいけなくて。アフリカの地には息抜きできることが何もなくて、ホテルと練習場の往復だけ。ストレスは溜まるし、自分と同じ立場の選手は他にいないし。

あのときが今までのサッカー人生で一番辛かったと思います。せめてフィールドプレーヤーをもう一人連れてってくれればね、気分的には全然違ったと思うんですけど。あの辛さががあったからその後に苦しい状況になったときも、「あれに比べたら全然大丈夫」という感じで乗り越えられた気がしてます。

そのときは、ユース日本代表、五輪代表、日本代表をフィリップ・トルシエ監督が兼任してました。トルシエ監督とはワールドユースのときもその後も言い合いしましたけどね。イライラして。向こうもワーワー言うし。シドニー五輪の時もそうでしたし、反発もしました。反発したらさらに言い返してきますけどね、トルシエ監督は。トルシエ監督、懐かしいです。

そのワールドユースから帰ってきてちょっとしてからデビューしたんです。デビューした試合のことは覚えてますよ。ナイジェリアの悔しさがあったから「何とかここで」と思って。ピッチに立ったときはうれしかったですね。ファーストステージ第12節福岡戦、柳沢敦さんの故郷の富山で開催された試合で、柳さんの凱旋試合という感じで。

39分、65分に得点して柳さんも89分にゴールして3ー0だったんです。点差があったので落ち着いてやれましたが、でも、という感じです。当時センターバックだった奥野僚右さんや秋田豊さんにすごく助けられながらだったので。

キーパーが味方を助けるというゲームでは全然なかったんです。気を使ってもらわれてるのがすごく伝わってきましたし。普通だったらキーパーの守備範囲のところも奥野さんが広くカバーしてくれました。ディフェンスがキーパーに対して神経を使うのはやっぱり勝てるチームじゃないと思いますし。

そのデビュー戦には勝ったんですけど、そこから3連敗して代えられたんですよ。結局、1999年は出場したのってその4試合かな。2000年のリーグ戦は2試合で合計3分だけ出場して。

当時の正キーパーは高桑大二朗さんで、鹿島が2000年に三冠を取った時のレギュラーでベストイレブンにも選ばれて、代表にも入ったりする人でしたから、全然出場チャンスはなくて。

でもU-22日本代表として2000年のシドニーオリンピックの予選にはちょいちょい出るようになったんです。そうしたら2000年はヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)の試合に出してもらえるようになって、決勝も出たんです。

2000年シドニー五輪のときもバックアップメンバーだったんですけどね。でもそのときは山口智くん、遠藤保仁、吉原宏太くんとかもバックアップで、僕と同じ気持ちをわかってくれる人がいたので、多少気分は違ったんですけど。

1999年のデビュー戦の後なんかは、自分がゴールの前に立っていることに、違和感……じゃないですけど、これじゃだめだと感じました。勝たせられないという、自分が何かを出来るというレベルではないと感じてました。もちろん結果が出てなかったというのもありますし。

2000年にはだんだん自信も出来てきました。ゲームの中で自分を出せるようになってきたし、「もう少しチャンスがあればなぁ」と思うようになって、で、2001年を迎えたという感じです。

 

▼日本代表では3番手も良い経験を得る

2001年、高桑さんがケガしてからしてたから使われるようになりました。ファーストステージの結果は11位とよくなかったんですけど、セカンドステージはチームの状態がよくてゴールも取れたから優勝できたんです。

そういうのっていろいろと影響しますよね。キーパーのプレーどうこうじゃなく、若い選手が出ててチームがカバーしながら勝っていく、勝っていくことが若い選手を使っていくきっかけになりますし、その選手は自分が出て勝つことによって自信にもなりますし。自分にとってそういう時期でした。

日本代表デビューもその2001年11月7日のイタリア戦、1-1の試合です。2002年日韓ワールドカップの準備のために組まれた試合で、柳さんがゴールを決めたゲームです。埼玉スタジアムの芝がぐちゃぐちゃでひどかったですね。

その時も急遽起用されたんですよ。最初はナラ(楢崎正剛)さんの予定だったんですけどケガをして、(川口)能活さんが出るという感じだったんです。ただ当時キーパーって試合当日の朝も練習してたんですよ。それが結構熱が入ってしまって、誰かの膝が能活さんの顔に当たってケガしたんです。

能活さんもダメだってことになって、僕が出ることになって。能活さんはベンチにも入れないということで、その日の昼ぐらいに南もベンチメンバーとして呼ばれて、という感じだったんです。練習の後に出場が決まって、「オレ、出るのか」ってさすがに緊張感はありましたよ。相手のイタリアはガチメンでしたし。

 

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