デニス・ベルカンプ、フランチェスコ・トッティ、ラウール……プレッシング全盛時代の10番はかくあるべし
写真:Shigeki SUGIYAMA
ゲームメーカーが減少する一方でウイングが台頭。現代サッカーの傾向である。日本サッカー界もいつしか中盤に好素材がひしめき合う中盤天国からウイング天国に一変した。
筆者が最初にその気配を感じたのは、1990年代前半のイタリアだった。日本では中盤天国の時代を迎えようとしていた時である。プレッシングという新しい波が到来していたイタリアでは、それに相応しい布陣だとして中盤フラット型の4-4-2が流行りだすことになった。フォーフォーツーはイングランドの伝統的な布陣だが、イタリア式は、相手ボールに転じると両サイドが高い位置を取り2-4-4的になった。
それはつまりゲームメーカーにとって居心地が悪い布陣だった。2トップ下というポジションがよく似合うファンタジスタ系の司令塔が、収まるべきポジションがなかったからだ。イングランドには司令塔の概念がなく、ゲームメーカーはセンターハーフと同義語だったため、フォーフォーツーは抵抗なく受け入れられたが、当時のイタリア・セリエAは全盛期を迎えていて、世界から10番が結集。技を競い合っていた。華を備えた世界ナンバーワンリーグだった。
彼らは4-4-2上では、サイドハーフとしてプレーした。ユベントスのアレッサンドロ・デルピエーロは左サイドハーフを主戦場とした。香川真司や南野拓実、清武弘嗣や中村俊輔がそうだったように、4-2-3-1の3の両サイドを任されても、気がつけば真ん中に入り込むような動きはしなかった。ポジションをしっかり守った。自分は何のためにそこにいるのか。プレッシング要員としての役割を、指導者からレクチャーされていたからだ。
だが、ゲームメーカーがサイドで構える布陣は、不自然と言えば不自然だった。その問題を見事に解消してくれたのが皮肉にも守備的サッカーだった。1990年代の後半に差し掛かった頃である。
守備的サッカーを代表する布陣=3-4-1-2の「1」=2トップ下に、彼らは綺麗に収まった。10番タイプの攻撃的MFは、「トレ・クアルティスタ」=4分の3の選手と呼ばれて持ち上げられたものだ。しかし、それではプレスは掛からない。
相手ボールに転じたとき、この3-4-1-2で戦えば、相手のサイドバックにプレスを掛ける選手がいなくなる。サイドの攻防で数的不利に陥る。と言うわけで、4-4-2で戦うチームもイタリアにおいても半分近くあった。
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